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小説「息が詰まるようなこの場所で」の印税の一部をあしなが育英会に寄付しました

「印税入ったら何に使うんですか?」

最近、こんなことをよく聞かれるようになった。正直、何も考えていなかった。正確には、考えないようにしていた。

もともと、作家を目指して文学賞に応募していた訳でもない。いくつもの偶然が重なった結果、趣味でTwitterに細々と書いていた話が長編小説として刊行されるという、宝くじが当たるような望外の僥倖を得るに至っただけだ。

自分が紡いだ物語が印刷された本が店頭に並んだ時点で、そしてその話を面白かったと評価してくれる読者がいたことで、私の夢は叶っており、本当に欲しかったものはもう十分に手に入っている。

とはいえ、金銭面での話から逃げ続ける訳にもいかない。印税とは、発行部数に本の定価と、とある係数をかけると出てくる仕組みだ。スマホの計算アプリを立ち上げずとも、なんとなく相場観は分かってしまう。

小遣い、というにはちょっと多すぎる、でもそれだけで食っていけるほどではない中途半端な金額。その使い道を考える時間は、かつて想像していたほど愉快なものではなく、どちらかというと、後ろめたさの方が強かった。

長編小説を書いたのは、今回がはじめてだ。人に会って話を聞いて回った。夜、浴槽の中で一人、次の展開をどうしようかと思案した。どうやったら読みやすい文章になるだろうかと一文字一文字を積み重ね、崩し、そしてまた積み重ねていった。そのすべてが、心底楽しかった。

私は兼業作家なので、日中は何食わぬ顔で働いている。仕事を通じて対価を得るという経済活動に卑しさを感じたことは一度たりともない。しかし、私にとって小説を書くという行為は、仕事とは最も離れた所にあった。私は弱い人間だ。最初から金銭のためであれば、ここまでのめり込むことはできなかっただろう。

現在の生活を省みると、決して裕福とはいえないが、家族と暮らす上で困らない程度の水準の給与は頂いている。そして、それは配偶者も同様だ。上を見ればきりがないが、現代の日本において比較的、恵まれた立場だと理解している。

随分と悩んだが、家族とも相談した結果、作家・外山薫として得た収入のうち、一部を寄付に回すことにした。このアイデアを快く受け入れ、背中を押してくれた家族には心から感謝している。

今回、寄付先としてあしなが育英会を選んだ理由は、経済的に苦しい家庭の遺児に教育の機会を与えるという理念に賛同しているからだ。

これまで、恥の多い人生を歩んできた。何度か道を踏み外しかけたこともある。しかし、そんな私をギリギリで踏みとどまらせてくれたのは勉強を通じて得た自己肯定感だった。それは両親が幼い頃から通わせてくれた公文のプリントや、祖父母が孫のためにと本棚に買い揃えてくれた世界名作全集が血肉となって築き上げたものだ。

私が東京の私立大学に通うと決まった時、両親は喜んで送り出してくれた。社会に出て、親となった今になってようやく分かった。私が与えられた教育は、私が当然のように享受していた環境は、決して当たり前のものではない。

今回、寄付の相談にあたって、あしなが育英会の本部を訪ねる機会を頂き、職員の方からあしなが育英会の現状と、遺児たちを取り巻く環境について伺った。

10万6000円。これはあしなが育英会から奨学金を受けている家庭の平均手取り月収だ。これは全国平均の4割弱の水準にすぎない。ここから生活資金を捻出し、子供に教育の機会を与えることがどれだけ大変か、皆さんは想像できるだろうか。子供の教育費に月10万円かける家庭がある一方で、10万円で暮らさざるを得ない現実がある。

貧困が奪うのは人間の尊厳であり、希望であり、未来だ。そんな苦しい状況に置かれた子どもたちが一体、何をしたというのだろうか。一方、恵まれた環境で育ったことすら自覚せず、のうのうと暮らしてきた私のような人間もいる。この差をもたらしたものは能力ではなく、ただの運でしかない。

私が今回描いた小説では、東京で暮らす「中の上」の家庭の母親、さやかを主人公として描いた。当たり前のように大学を卒業し、大手企業に務め、そして子供の教育に力を入れる。住宅ローンと教育費で生活が苦しいと嘆きながら、子供の選択肢を広げるために、と塾に課金をしていく――。

2022年時点の東京の一部で起きていることを切り取り、その断面に焦点を当てたものだが、作中で意図的に語られなかった問題がある。選択肢を増やす機会を与えられなかった子供、与えることができなかった親の存在だ。

あしなが育英会の21年度活動報告書に書かれた、「弱者は生きていてはダメなんでしょうか」という40代の母親の声。「何をしたらうまく行き、子どもを幸せな大人にできるのか?」と自問する50代の母親の文字。それは、私が小説で書いた「地獄」とは全く質が異なるものだ。

(2021年度活動報告書)

私たちが暮らす日本は、諸外国のように貧困街があるわけでもなく、大通りに子連れの物乞いがいるわけでもない。貧困問題が目に見えにくい、世界でも珍しい特殊な環境だといえるだろう。特にクラスの子供の大半が中学受験をするような地域で暮らしていると、貧困というのは文字通り、「別世界」の出来事なのだ。しかし、偏差値で一喜一憂している子どもたちとはまったく違う次元で未来のために歯を食いしばり、アルバイトの傍ら、机に向かっている子がいる。

あしなが育英会が発行する機関紙には、母の仕事を手伝いたいとタイピング競技に向かう高校生や、夜間大学で学びながら就職を決めた大学生の声が載っていた。ここで用いられる「学び」という言葉の重さを表現するすべを私は持たない。

(機関紙「あしながファミリー」より)

2021年度の時点で、あしなが育英会の奨学金は総額63億円。8487人の子供たちが支援を受け、勉学に励んでいる。全員が大学に通うわけではない。家庭の事情で高校を中退し、それでも学ぼうと通信学校に通う子供も多いという。それでも、彼ら、彼女らにとって、教育とは未来につながる希望だ。

今回、寄附にあたり金額の設定に悩んだが、初版の発行部数に応じて30万円に決めた。大した額ではないが、きっと誰かの人生を変えるきっかけにはなるだろう。少なくとも、私が自分のために使うよりも遥かに有意義だろうと確信している。今後、本の売り上げや発刊に応じて寄付金を増額することで、作家活動を続ける上でのモチベーションとしていきたい。

(個人情報部分を加工済)

…ここまで長々と私の決意表明にお付き合い頂き、ありがとうございます。

ここから先は、この文章を読んでいる皆さんにお願いしたいことがあります。私の小説の読者は、実際に子育てをしている人が多いと聞いています。自分の子供を想う10分の1とは言いません。50分の1、100分の1でも良いから、自分の子と同年代の、恵まれない境遇の子どもたちを支援することはできないでしょうか。子どもの塾代や、クリスマスプレゼントのついででも構いません。ほんの気持ち程度でも、優しさをおすそ分けできないでしょうか。

今回の記事執筆にあたり、私はあしなが育英会の事務所を訪れ、子どもたちの支援にあたる人たちの声を聞きました。専務理事の岡崎さん、管理部長の束田さん、奨学課の富樫さん、寄付課の林さん、広報部の新元さん。皆さんが、私のような無名の新人作家の話に耳を傾け、何ができるかを一緒に考えてくれました。

私も子供を育てる一人の親です。我が子に豊かで幸せな人生を歩んでほしいし、競争で少しでも有利になるための支援は惜しまないという、卑しい心があります。でも同時に、この不平等で理不尽な社会をこのまま子供たちに残したくないという矛盾した想いも持っています。

階層が固定化されつつあるこの歪んだ社会を作り出しているのは「政治」や「行政」といった、ふわっとした存在ではなく、我々、一人ひとりの人間の行動です。あしなが育英会の奨学金は、市民の善意によって成り立っています。「他の立派な誰か」ではなく、これを読んでいるあなたにも、同じことができるはずです。

駆け出しの作家が偉そうに語ることではないかもしれませんが、私は、言葉の力を信じています。この投稿が、一人でも多くの人の背中を押すことを願っています。

2023年2月18日 外山薫


追記(2023年4月12日)

ありがたいことに重版が決まったので、追加で寄付しました。累計45万円ということで、私立大学の文系の学部の前期分くらいにはなるのかな。中期的な目標として、作家活動を通じて大学4年分の学費を賄えるくらいまでこの数字を積み重ねていければと思います。


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