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小説朗読 マリー姫とマクシミリアン1世の愛の物語  第1章

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こちら私の投稿している小説の朗読になります。 中世ヨーロッパにおいて強大な富を誇ったブルゴーニュ公国のマリー姫と、神聖ローマ皇帝家のハプスブルグ家の御曹子マクシミリアンの史実に… もっと読む
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#姫と騎士の物語

祖父の死によって父シャルル突進公はブルゴーニュ家4代目当主となり、その一人娘であるマリーは事実上、この華麗なるブルゴーニュ公国の後継者となったのだ。

※絵はシャルル突進公の27歳の頃の肖像画

さて、なぜフィリップ善良公が「騎士団」の名前に「金羊毛」を入れたのか、おわかりいただけただろうか。

※写真は金の羊が付いた、金羊毛騎士団の騎士の首飾り

エレオノーレが亡くなったのは1467年9月3日、マリーの母イザベルが亡くなったのはその2年前の1465年9月25日のことで、いずれも9月、そしてマリーもマクシミリアンも共に8歳の時であった。


※こちらの絵は「皇妃エレオノーレと2人の娘」という絵画で、この2人の娘とは1歳で夭逝してしまったエレナと、マクシミリアンのたった一人の妹だったクニグンデの2人の姫と母エレオノーレ。

 それが「我らが騎士マクシミリアン」であり、この陰気な父フリードリッヒ3世とは似ても似つかない光り輝くように明るい魂を持った御曹司が産まれたのは、1459年3月22日のことだった。


※画像はマクシミリアンの両親---フリードリッヒ3世とエレオノ-レ

“Mon ange“ (モン・アンジュ) とか、“ma petite princesse “ (マ・プティット・プランセス 私の可愛いお姫様)とか、“mon trésor“ (モン・トレゾール)と美しい声でマリーを呼んでくれた母はもういない。


※絵はマリーの母、イザベル・ド・ブルボンのお墓があったアントワープの教会

3人で、なんとか生きていくことができそうだと、ベアトリスは心から安心した。


※写真は今もベルギーにある小さな白い家。ベギンホフのベアトリス達が暮らしていた家はまさにこのような家だった

では貴族でもなく、貧しい女性は一人でどうやって生きていけば良いというのか……これがベギン会が生まれた理由だった。この自分たちをベギンと呼んでいた未亡人や独身女性達はなんと自給自足の生活をし、生計を立てていたのだ。


※写真はメッヘレンの聖ロンバウツ大聖堂。

そう、それが例え特権を失った、ただの市民としての大変な生活でも、子供達が殺されてしまうかもしれない、という恐怖に怯えた生活をするよりは余程ましな生活に思えた。


※写真はベルギーの美しい運河

 3人で平和に暮らしている所に突然やってきた男達はこう言った。
「この屋敷の者たちは貴女様方以外は私達の敵方、このまま無事に屋敷から出すことはできません。この屋敷に留まってもらう他はありません。
ただし、貴女様のお子様ともう一人のお子様のお二人には一緒に来てもらいます」と……。

※写真はブルージュ「愛の湖」

 ブルゴーニュ公国の政策の一環として最も重要なことは、マリーをどこへ嫁がせるかということであり、的確な相手を探すことだった。
 そしてマリー5歳の時の最初の婿候補は、アラゴン王太子になったばかりのフェルディナンドだった。後のカスティーリャ女王イサベル1世と共にカトリック両王となったアラゴンのフェルディナンド2世だ。

※絵はマリーの母イザベル・ド・ブルボンの肖像画

前回はシャルル突進公で終わったので、このマリーの父シャルル突進公という、かなり無鉄砲ではあるが、無骨な騎士であり、そういう意味では魅力的でもあるこの人物について少し説明したい。

※絵はマリーの父シャルル突進公の肖像画

中世に百合の紋章のフランス王国と、鷲の紋章のドイツ神聖ローマ帝国の2つの大国に挟まれて繁栄を誇っていたのは、華麗なるブルゴーニュ公国だった。

※絵は1430年以降のヴァロワ=ブルゴーニュ家の紋章

987年から1848年までフランスを支配したカペー朝・ヴァロワ朝・ブルボン朝・7月王政の各王は、みなユ-グ・カペーの子孫だった。


※絵はフランス初代王ユ-グ・カペーの肖像

私は誰かを「ママ」と呼んだ記憶もない。
そして当時、周りの大人達は私のことを「姫」と呼んでくれていた。


※写真はブルージュのベギン会修道院