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2022年5月の記事一覧
“Mon ange“ (モン・アンジュ) とか、“ma petite princesse “ (マ・プティット・プランセス 私の可愛いお姫様)とか、“mon trésor“ (モン・トレゾール)と美しい声でマリーを呼んでくれた母はもういない。
※絵はマリーの母、イザベル・ド・ブルボンのお墓があったアントワープの教会
3人で、なんとか生きていくことができそうだと、ベアトリスは心から安心した。
※写真は今もベルギーにある小さな白い家。ベギンホフのベアトリス達が暮らしていた家はまさにこのような家だった
では貴族でもなく、貧しい女性は一人でどうやって生きていけば良いというのか……これがベギン会が生まれた理由だった。この自分たちをベギンと呼んでいた未亡人や独身女性達はなんと自給自足の生活をし、生計を立てていたのだ。
※写真はメッヘレンの聖ロンバウツ大聖堂。
そう、それが例え特権を失った、ただの市民としての大変な生活でも、子供達が殺されてしまうかもしれない、という恐怖に怯えた生活をするよりは余程ましな生活に思えた。
※写真はベルギーの美しい運河
3人で平和に暮らしている所に突然やってきた男達はこう言った。
「この屋敷の者たちは貴女様方以外は私達の敵方、このまま無事に屋敷から出すことはできません。この屋敷に留まってもらう他はありません。
ただし、貴女様のお子様ともう一人のお子様のお二人には一緒に来てもらいます」と……。
※写真はブルージュ「愛の湖」
ブルゴーニュ公国の政策の一環として最も重要なことは、マリーをどこへ嫁がせるかということであり、的確な相手を探すことだった。
そしてマリー5歳の時の最初の婿候補は、アラゴン王太子になったばかりのフェルディナンドだった。後のカスティーリャ女王イサベル1世と共にカトリック両王となったアラゴンのフェルディナンド2世だ。
※絵はマリーの母イザベル・ド・ブルボンの肖像画
さて、その頃アリシアとベアトリスはどうしていたのだろうか。
マリーが4歳でまだ両親とエノー伯爵家の居城であったケノワ城で暮らしていた頃、アリシアはベアトリスと隠れるような生活を余儀なくされていた。
そして7月の中旬の過ぎたある日、ベアトリスはついに赤ちゃんを産む。
15世紀の当時のフランダース地方には既に動物園があったのでした。
※この絵は有名な「鳥を持つマリー・ド・ブルゴーニュ」の肖像画
前回はシャルル突進公で終わったので、このマリーの父シャルル突進公という、かなり無鉄砲ではあるが、無骨な騎士であり、そういう意味では魅力的でもあるこの人物について少し説明したい。
※絵はマリーの父シャルル突進公の肖像画
中世に百合の紋章のフランス王国と、鷲の紋章のドイツ神聖ローマ帝国の2つの大国に挟まれて繁栄を誇っていたのは、華麗なるブルゴーニュ公国だった。
※絵は1430年以降のヴァロワ=ブルゴーニュ家の紋章