同じ価値観

うつ病で仕事を辞め、三十でアルバイトをして辛い、というのがあるけど、その悩みや苦しさは、自分の中に、それをダメだと思う(普通の人間はそうじゃないという)そういう価値観が内面化されているからで、うつ病をダメ扱いし、いい年してバイトをする人を見下す人と、同じ価値観の中にいるということでもある。
いつの間にか人というのは、その「同じ価値観」の中にいる。それを補強する言葉だけでなく、それを批判する言葉も、それに対抗するかに見える価値観も、結局のところは言葉や論の運びはどうであれ、「同じ価値観」の中にいる場合が多い。
いつの間にか心が囲い込まれて苦しくなっている。ただ、これはたとえ頭ではわかった、わかっていたとしても、じゃあ心が抜け出せるのか、というと中々そうはいかない。
自己啓発書や、ネットで人が書いたものをみると、抜け出せていないくせに、抜け出せている、自分は楽に生きている、と言い、さあ君たちも僕の、私の方に来い、僕を応援し、私の本を買え、と言っているかのように見えるものだらけだ。結局は囲い込まれてしまって苦しくなった心を、気休めや嘘や不安を満たす言葉を与え、金を巻き上げているだけに見えるが、それは善意なのか、搾取なのか、結局は金を稼がなければならないので、出版は商売だ、経済活動だ、ということだろうか。確かに辛い世の中を忘れる為の何かは必要だ。
楽になるのなら、抜け出せている、と思い込むこともわるくないけど、別に抜け出す必要があるのだろうか。
その自分たちが囚われている、生きている価値観を感じつつ?違和感を抱きつつ?不安にとどまりながら、その中にいながらも、心を広げていけるものはないだろうか。ほんの一瞬でもいいから自由になれるものはないだろか。そういうものが(自分の場合辛い仕事でうつ病になり、と書いているけど、ただそう書いているだけのものではない)話が、うつ病で三十でみたいな人の悲しい、キツイことを書きながら、ある意味バカバカしい話を書きながら、そんなものを書けないだろうかと思っている。

鎖につながれたら、鎖のまま歩く。十字架に張りつけられたら、十字架のまま歩く。牢屋に入れられても、牢屋を破らず、牢屋のまま歩く。笑ってはいけない。私たち、これより他に生きるみちがなくなっている。いまは、そんなに笑っていても、いつの日か君は、思い当たる。あとは、敗北の奴隷か、死滅か、どちらかである。
                               太宰治