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【PP】ももいろクローバーZ 6thアルバム『祝典』はコロナ終息を祝う式典? 考察&全曲レビュー【後編】

 5/17日発売、ももクロさんの6thオリジナルアルバム『祝典』でございますけれども、先日、アルバム考察と全曲レビュー前編を公開いたしまして、今回はその続き、後編でございます。まず、前編はこちら。

  前編では、第一幕、式典の開幕から酒宴までの流れに沿って、9曲目までのレビューをいたしました。どうやら、この『祝典』は「MCZ教団」の信徒たちの祝いの式典であり、メンバー四人はその式典を取り仕切る司祭である、というのが前回の考察でした。「MYSTERION」で厳かに始まったかと思えば、酒だ飯だ、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎを始めたももクロ式の式典は、後半いよいよ、落ち着いた式になっていきます。念のため、前回の式次第を振り返っておきましょう。

【祝典-式次第-】
◆開場、入場
  01. Opening Ceremony -阿-
◆信徒による祈り(回心)
  02. PLAY!
◆司祭の入場
  03. ダンシングタンク♡
◆祝典の開催宣言
  04. MYSTERION
◆酒宴の開始
  05. 満漢全席
◆余興①(ゲーム)
  06. BUTTOBI!
◆余興②(歌と踊り)
  07. ショービズ
◆中締め
  08. HAND
◆休憩時間
  09. Intermission -闍-
------------------------------------
◆信仰宣言(クレド)
  10. momo
◆憐みの賛歌(キリエ)
  11. なんとなく最低な日々
◆栄光の賛歌(グロリア)
  12. stay gold
◆燭火礼拝
  13. 月色Chainon ももいろクローバーZ ver.
◆讃美歌合唱(アニュス・デイ?)
  14. 孤独の中で鳴るBeatっ!
◆懺悔聴聞(サンクトゥス?)
  15. 手紙
◆閉会の挨拶
  16. また逢う日まで
◆退場
  17. Closing Session -梨-

 後半は、いろいろな要素は取りこみつつも、キリスト教(カトリック)のミサが参考にされているのでは? というのが僕の仮説でありますが、まあ、あくまで勝手に想像しているものなので、正解不正解と言うものではないと思います。前半に引き続き、酒の肴に、気軽に読んでいただけたら幸いです。

 では、後半第二幕、10曲目からのレビューを再開いたしましょう。

■10 momo

 前半の酒宴の後、神殿の空気は一変します。10曲目「momo」のイントロは、信徒たちが整然と整列した神殿に響き渡る音のような、空間の広さを感じさせますね。曲調は、80年代ニューウェイヴっぽいニュアンスが香るエレクトロポップ。作曲は、おなじみNARASAKI氏。ポップではありつつも、サビの部分にはディストーションギターが入り、きりりとした意志の強さも見せたアレンジになっていますね。

 ストーリーに照らし合わせると、神殿の大窓から降り注ぐまばゆい西日の光線が目に浮かびます。どこか、空へと向かっていくような飛翔感もありますね。見上げる上方に人間を超越した神聖なるものの世界があるという「」の概念は、洋の東西を問わず、共通した宗教観だと思います。「今こそ秘密を話そう」。窓から注ぎ込む天然のスポットライトに照らされた四人の司祭の言葉によって、信徒たちの意識は、神殿の上に広がる天へと導かれます。

 詞で語られるのは、司祭が心の中で「momo」という仮の名を持つ女神と対話した奇跡についての話。ユダヤ教では、神の御名を書き記すのは恐れ多いこととされ、神の名から発音に必要な母音を抜き去り、「YHWH」などと表記したりします。これを「神聖四文字(テトラグラマトン)」と呼びますが、MCZ教団においては、この「m・o・m・o」の四文字こそが神聖なる四文字、神の御名なのかもしれません。

 さて、詞の内容は、ある誓いについて。おそらく、ここまでの曲と同じく、「momo」も、コロナ禍からの脱却を歌っていると思われます。キリスト教では、イエス・キリストが全人類の罪を背負って磔刑に処されたことを「受難(Passion)」と呼びますが、コロナ禍における2年間は、まさに人類受難の時。ようやく、その受難の雨から晴れ間が見えてはきましたが、すべてが元通りになることはなく、たくさんの傷や痛みが残りました。受難の世を生き残った者として、この先どう生きていくのか、どう生きていくべきなのか、という想いが、「momo」への誓いとして歌われているように思いますね。

 コロナの感染拡大に伴って、世の中はどんどん対立が生まれていきました。自粛警察や、コロナ陰謀論を唱える人。コロナ政策をめぐっての人同士の対立に、ワクチンやマスク着用などをめぐる価値観のぶつかり合い。僕も、2021年の夏ごろなど、テレビやSNSを見るたびに飛び交う心無い誹謗中傷、罵詈雑言の応酬に心が追い詰められて、一時、文章が書けなくなってしまったくらいでした。

 エンタメ業界の悲鳴も、「自粛」の二文字で封殺されてしまいます。中には、発言を切り取られて激しいバッシングを受けた関係者もいました。そういう世界では、人はただ生きているだけでも消耗し、疲弊し、傷ついていきます。動けなくなるほどの大けがではなくとも、こんなとこぶつけたつもりなかったのになあ、と、鏡の前で体に浮かんだアザを見ながらため息をつく。そんな時間が続いていたのでしょう。
 コロナ禍が明けて、世界が元通りになっていけば、いずれまた前のような生活は戻ってくると思います。でも、残ったアザ、唇に残った苦さを、なかったことにして、我々は笑って過ごせばよいのでしょうか。

 司祭は、「momo」との対話の中で、苦さを飲み込むことはしない、と決意します。胸に残った想いは、吐き出さなければならない。でも、人を罵ったり、噛みついたりすることではなく、愛を歌うことで想いを伝える。すさんだ世界に救いを与えるために、「愛だけを歌にしますと誓った」わけですね。

 さて、「momo」とはなにか?というのも一つ考察のポイントだと思いますが、僕は、これは「ももいろクローバーZという存在」じゃないかな、と思うのです。四人のメンバー個々の人間としての集合体、グループということではなく、「ももクロという概念」のことです。
 「ももクロ」とは、もちろん四人のメンバーが集まったときのグループの名称ですが、グループには、四人のメンバー個々の存在を超えた価値が付与されます。アイドルに限らず、どんなグループ、集団、会社でもそうですが、構成する人間そのもの以上に、ブランドの価値だったり、支える黒子役のスタッフの力だったり、そういったものを集約して、一つの概念を形作るわけです。説明が難しいですけどもね。わかってもらえるでしょうか。

 グループを離れてしまえば、彼女たちも信徒たちと同じ、一個の人間です。「アイドル」とは、もともと「偶像(idol)」を意味する言葉ですが、まさに、彼女たちは「ももいろクローバーZ」という概念を体現するための偶像であり、多くの人に崇拝されているのと同時に、その名前に縛られた存在でもあります。つまり、「ももクロ」という概念を神として顕現させるための依り代や巫女のようなものであるわけですね。人間だから、生きていれば、アザもできるし、キズもできる。なにがあっても、ステージ上のようにいつも元気いっぱい笑っていられるわけでははありません。

 人としての彼女たちは、自分の存在意義が揺らいだ時、きっと、自分の心の奥にある、アイドルとしての「ももいろクローバーZ」、すなわち「momo」に殉じるのだ、と、信仰を確かめなければならないのでしょう。そして、自分たちを通して、「ももクロという神」を拠り所にする多くの人を笑顔にするために、愛を歌うことを選ぶわけですね。現実の多くの宗教においても、神の代弁者となるべく、人生を神にささげる神職の人々がいて、その人々を通して、在家信者たちは信仰を深めるのです。

 キリスト教のミサで歌われるミサ曲の中には、「信仰宣言(信徒信条、信条告白)」というものがありまして、ラテン語で「我、信ずる」を意味する「クレド(credo)」とも呼ばれております。これは英語の「creed」に相当し、信条、信念、主義、などを表す言葉です。神の存在を信じること、神の言葉、天の国と永遠の命を信じること、というキリスト教の根源的な教義・信条を歌にしたものですが、「momo」で歌われているのは、まさにMCZ教団としての信条であり、心の中の女神「momo」への帰依、信仰を宣言する、ももクロ的「クレド」なのではないかな、と思いました。

 単独の曲としてはわりとさらっと聞ける曲ではあるのですが、今回の『祝典』の意味を考えたとき、この「momo」は非常に重要な、アルバムの中のストーリーの軸の部分なんだろうな、という感じがしますね。

■11 なんとなく最低な日々

 絶望しているわけでもないし、生活苦などにあえいでいるわけでもなく、普通に日常を送ることはできている。でもなんか、気分が上を向かない。下を見ればもっともっと悪いことはあるけれど、それでも「最低」と言いたくなる気分の日。そういう、誰にでもある憂鬱な日々の中で、アイデンティティを失いかけている人の心情を、柔らかく優しく、ポップに歌い上げた「なんとなく最低な日々」。少なめの音色で淡々とした曲調ながら、言葉にできない「なんとなく」のもどかしさをじんわりと感じる曲ですね。

 印象に残ったのは、「今は2022年」とはっきり歌詞で明言してるところ。ももクロの歌で、あそこまでくっきりと「何年」とその年を特定するような曲は珍しいんじゃないですかね。「14歳」とか「ひょひょいと令和!」くらいのはありましたけど。
 リリース年が入ってる歌シリーズは、僕の世代ですと、『夏の日の1993』とか『SIVA1999』『LOVE2000』『1/6の夢旅人2002』辺り懐かしいですけども、そもそも『なんとなく最低の日々』は、タイトルに年が入っているわけでもなく、今年に限らず、いつの時代にもフィットするような普遍性のある歌詞なのに、なぜ、あえて「2022年」と明言する必要があったのでしょう。

 そこにはやっぱり、本アルバムを通して、この時代のことを記録しておきたい、という制作側の強い想いがあるのではないかなと思います。コロナ禍という時代の中で感じたこと、ついた傷、失ったもの。そういう時代性をこのアルバムに刻み込んで、後々の時代にまで伝えておきたい。教団の教えを語り継いでほしい、というような。

 式次第にある「憐みの賛歌(キリエ)」とは、先述の「クレド」と同じく、典礼で歌われるミサ曲の中の一つです。「キリエ(Kyrie)」とは、「主よ」の意味。「キリエ・エレイソン(Kyrie eleison)」で「主よ、憐れみ給え」と訳されます。その一節には、おお主なる神よ、苦しみと悲しみに満ち溢れた人の世界にいる自分たちを憐れみ、再臨して、我々を神の国へお連れください、というニュアンスが込められているのだろうと思いますね。つまり、「この(なんとなく)最低な日々を送る我々をお救いください」という感じでしょうか。

 キリスト教では、もちろん神様からの返答はなく、信者はただひたすらに信仰を持ち続けることを求められるわけですが、MCZ教団では、すぐに救いの言葉がもたらされます。ポピュラー音楽では、悲恋だったり、不満だったり、後悔だったり、ネガティブな感情をそのまま込めた歌というのが数多くありますけれども、今回のアルバムでは、必ず「肯定」という救いが用意されているように思います。
 「見えていたものが途端に見えなくなっちゃったときは」、「みんなの街に背を向けて」「モンタージュをこしらえてやればいい」というフレーズは、どういうことを具体的にイメージしているのかまではわからなかったんですけど、たぶん、社会から一旦目をそらして、よいことだけを繋ぎ合わせた、自分だけの「モンタージュ(カットを繋ぎ合わせて通った映像のこと)」を作ればいいよ、ということを言っているんですかね。無理に社会に迎合しようとしないで、自分のアイデンティティを大事にしよう、その手助けを、ももクロがしますよ、という。なんとなく最低な毎日の中にも、ももクロのライブに来て、楽しんだ記憶があるでしょ? その断片的な記憶を繋いで、人生悪くないなって思ってくれるといいね、みたいな感じですかね。

 ここはちょっと、解釈の難しい歌詞だったなと思いますけど、ポジティブな救い、無理しないでね、というメッセージであることは伝わってきます。

■12 Stay gold

 さて、12曲目は、日テレ系ドラマ「チート」の主題歌であった「Stay gold」。ドラマの内容に合わせて、人の二面性の怖さ、それに対峙する人間の決意を歌った曲になっております。かなり疾走感、前進感のあるロックナンバーで、今までの「少女たちが、一生懸命、がむしゃらに夢に向かって走っている」というニュアンスではなく、この不条理な世界をいかにして生き、前に進むのか、という、孤高のヒロイックさ、悲壮なる決意を感じさせる歌詞になっていますね。

 タイトルの「Stay gold」とは、「輝き続けろ」といった意味合いで使われることが多いのですが、僕の個人的な解釈としては、「成功し続けろ」とか、「目立つ存在であり続けろ」といったニュアンスではなく、どちらかというと、「自分を貫け」といった意味合いかなと思いました。この場合の「gold」は、「黄金時代」。つまり、若かりし頃のゆるぎない自分、なにをも恐れない確固たる自信に突き動かされていた頃の自分を持ち続けて生きていけ、ということになるんでしょう。必要以上に「オトナ」になりすぎるなよ、ということかもしれません。

 社会に出て、嘘や裏切りにさらされ、挫折と失敗を繰り返しながら、人は摩耗し、輝きを失っていきます。でも、誇り、信念、夢、そういったものを若かりし頃には誰しもが持っていたはずです。生まれ落ちた瞬間から悪人である人間はこの世に存在せず、自分の人生をさかのぼれば、どこかで黄金の輝きがあった時代がある。黄金は、傷ついてくすんでも、磨けば輝きを取り戻します。その輝きを忘れずに生き続けろ、という強いメッセージなのではないでしょうか。曲調や表現の角度は少し違いますが、「ザ・ゴールデン・ヒストリー」につながる、ももクロとしての普遍的なテーマなのかもしれないですね。

 今作は世界がコロナ禍に陥る直前、2019年11月のリリースです。なので、本来はコロナ禍の世の中を想定して作られた曲ではないでしょう。ただ、アルバム「祝典」の中では、全曲を通してコロナ禍からの脱却というテーマが貫かれていますので、ここでは、人の醜さや二面性がさらけ出されてしまったコロナ禍の世の中にもまれながらも、自分の信じる道を貫き、祝典の場に辿り着いたモノノフさんたちを、「君は間違ってない」と称える歌になっているのかなと思います。

 後半の軸となっている「ミサ曲」は本来5曲で構成されているそうで、「クレド」「キリエ」「グロリア」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」の5曲。ここまで、「クレド」「キリエ」と続いてきたので、ここは神の栄光を称える「栄光の賛歌(グロリア)」に相当するのかなと思います。詞の内容がびったり合致しているわけではないですけど、「黄金」というイメージと、「栄光」というイメージは重なる部分があるんじゃないかなと思いますね。

■13 月色Chainon

 13曲目は、アニメ映画「劇場版 美少女戦士セーラームーンEternal」の主題歌、「月色Chainon ももいろクローバーZ Ver.」。セーラームーンとのタイアップは、「moon pride」「ニュームーンに恋して」に続く3曲目ですね。

 曲は、初代アニメの放映された90年代を彷彿とさせる王道J-POP。やや哀愁の漂う、少女漫画的世界観の曲だと思います。作曲は、ももクロもカバーした「Moon Revenge」「タキシード・ミラージュ」など、セラムン楽曲を多数手がけている小坂明子さん。作詞の白薔薇 sumire氏は、「moon pride」のカップリング「月虹」も担当した例の先生の、世を忍ぶ仮の姿ですね。

 タイトルの「Chainon」は、英語の「Chain on」ではなく、フランス語で、「シェノン」という読み。フランス語の「chaînon」とは、という意味の他に、「鎖で作った輪、連環」みたいなニュアンスがあるようでして、英語の「link」に相当する言葉みたいです。

 ただですね、2022年6月現在のwikipedia/月色Chainonのページを見ると、「chaînon」は「幸せの連鎖」という意味、と書かれてるんですよね。これ、僕は誤訳とか誤解だと思っています。

 この、「幸せの連鎖」っていう訳はですね、調べてみると、日本語サイトだけでめっちゃ出てくるんですよ。お店の名前の由来とか。でも、肝心のフランス語サイトやフランス語辞書によると、「chaînon」自体には「鎖」「リンク」という以上の意味はない(地質学用語で別の意味はあったけど)みたいで、現地でほんとうに「幸せの連鎖」という意味で使われているかはやや疑問です。「幸せの連鎖」は、フランス語で「La Chaîne du Bonheur」となりますしね。

 詞を見る限りでも、「chaînon」は、「果てない愛人(ひと)」と自分との間にある運命という名の縛鎖、のようなニュアンスで歌われているので、少なくとも、曲中においては「幸せの連鎖」みたいな意味で使ってはないんじゃないかなと思います。むしろ、「この人と運命の鎖で結ばれてしまった私ったら不幸!」「でも、でも離れられないの、運命だから!だって、愛しているから!」みたいな悲劇のヒロインの必須ツール的扱いですし、意味としては「幸せの連鎖」とは真逆の、「(甘美な)不幸に縛りつける鎖」じゃないですかね。

 もしかすると、日本で過去に「幸せの連鎖」というニュアンスを表現するために、フランス語で鎖を意味するchaînonを使用した人がいて、そこから、chaînonはフランスで幸せの連鎖という意味で使われているという誤解が広まってしまったのでは、、、と思ったんですが、違うかな。フランス語にお詳しい方がもしいらっしゃったら、ぜひ解説していただきたいなあと思います。

 ということで、細かいことはさておき、曲はもう、前述のとおり少女漫画の世界観全開でして、「果てない愛人」との(おそらく)悲恋に翻弄される乙女の心を情感たっぷりに歌った曲になっております。男子としては少々腰の引ける感じもあるのですが、悲劇のヒロインへの憧憬という女子のツボをド正面から剛速球で突いてくるあたりは、さすが、と言うべきでしょう。

 セーラームーンといいますと、それまでは王子様を待つシンデレラだったヒロイン像から脱却して、「戦うヒロイン」という概念を作り上げた作品だと思うんですけど、それでも、戦ってるけど、ほんとうはか弱い乙女なの、みたいな、新旧の女性観が混在する作品だと思います。それも、ステージに立つアイドルの二面性みたいなのとリンクする部分でもあるんですかね。前アルバムの「The Show」や、今回の「ショービズ」にもつながる価値観である気がします。

 時代とともに、フィクションで描かれる女性像も変化してきておりますけれども、70年代頃から連綿と続く少女漫画的世界観が、楽曲も含めて今の時代にも受け入れられているところには作品の力を感じますね。

 で、この「月色Chainon」については、「コロナ禍からの脱却」「自己肯定」というメインテーマと関係ない内容の曲なんですよね。曲はセーラームーンの世界観に忠実に作られたものですし、白薔薇先生にアルバムコンセプトに即した詞を書いてくださいなどと注文を付けることもできなかったと思うので、まあ、致し方ないことじゃないかなと思います。

 じゃあ、式次第のこの位置に「月色Chainon」を持ってきた意図はなんなのか、と考えたときに、月=夜という時間経過のイメージなのではないかなあと思いました。式も終盤、日が落ちて空に月がのぼり、星がきらめきます。月は、古今東西どこの地域でも女神のイメージですし、「momo」の名を冠する女神が降臨して依り代となった四人に憑依し、その神性が顕現する時間なのかもしれません。

 神殿では、信者たちが灯りをともし、降臨した女神に向けて「燭火礼拝」を行います。「燭火礼拝」とは、クリスマス・イヴに行われるミサにおいて、ろうそくの光を灯してキリストの生誕を祝うプログラムだそうで、結婚式のキャンドルサービスの元ネタですね。

 日が落ちて暗くなった神殿で、信者が手に持った灯火を掲げる光景、そしてステージ上の四人が光に照らされて輝く瞬間は、モノノフさんたちには容易にイメージがつくのではないでしょうか。大きな会場で、あの美しい光景を見ることができる日も、そう遠くないでしょう。

■14 孤独の中で鳴るBeatっ!

 式も終盤、14曲目は、神聖かまってちゃん・の子氏による「孤独の中で鳴るBeatっ!」。宗教的儀式をテーマにした今作ですから、「神聖」というワードは思い切りはまったんでしょうね。

 の子氏作曲ということで、かなり攻めた曲になるかと思っていたのですが、意外にも(?)、非常に温かい雰囲気のポップソングになっておりました。絶対、聖歌隊使った僕の戦争みたいなやつが来ると思ってたんですけどねえ。予想がはずれてしまいましたね。

 曲は、柔らかなストリングスが心地よいピアノロック。90年代ポップっぽい王道の曲構成で、メロディーは少しフォークソング的な要素も入っているような気がします。全体的にドラムのリズムがほぼ一定で変化や展開がほとんどないので、聴かせる、見せる、というよりは、みんなで歌うイメージで作られたのではないかな、と思いました。隣の人と肩を組んで、横に揺れながらみんなで合唱したくなるような感じですよね。

 詞の内容は、なかなか未来が見えず、前向きになれない毎日の中で「君」がくれた「大丈夫さ」という言葉に背中を押されて、新しい明日に向かって走り出す「僕」の風景が描かれています。今回、「孤独」という歌詞やイメージも結構頻出していて、これもやはり、コロナ禍における人と人の分断、そしてそこからの脱却と、リユニオン、そして自己肯定がテーマになっていますね。今回のアルバム全体の総括をするような一曲になっています。

 サビのフレーズは穏やかで抜群にポップ。フェイクやビブラートを使わない、四人のまっすぐなユニゾンに乗った「大丈夫」という歌詞が、ドストレートに響いてきます。これにはぐっと来た人も多いのではないでしょうか。 まさに、四人から我々に向けた応援歌で、家族、友人、モノノフさん同士 で、みんな一人じゃないよ、ということを確かめ合うような歌なんだろうな、と思います。

 式次第の中では、ここは信徒全員で合唱するようなイメージかな、とも思うんですが、前述のミサ5曲のイメージだとすれば、「平和の賛歌(アニュス・デイ)」に相当すると解釈することもできるんじゃないでしょうか。「アニュス・デイ(Agnus Dei))」とは、「agunus=子羊」、「dei=神の~(deusの属格)」の意味で、「神の子羊」と訳されます。「神の子羊」は、キリスト教においては、人間の罪を背負って生贄となったイエス・キリストを意味する言葉で、「アニュス・デイ」は、キリストに平和と平安を祈願する歌のようですね。

 イエス・キリストのように、人々の罪を血で贖うわけではないですが、アイドルもまた、いろいろなものを犠牲にして、人々を元気づけるために活動する存在です。我々を勇気づけてくれる「大丈夫さ」の一節の裏に秘められた数々の苦難が、彼女たちの歌声に深みと厚みをもたらしてくれているのかもしれないですね。

■15 手紙

 15曲目は、今回のアルバムで唯一のスローバラードである「手紙」。通り過ぎてきた過去に残した後悔を抱えながらも、それでも自分は自分。そういう苦しんだ過去がわかるからこそ、人を勇気づけることができるんだ、という、「僕」の言葉が胸にしみる曲になっています。

 曲を手掛けたのは、眉村ちあきさん。某番組の企画にて、名曲「朝日のように輝きたい」を披露し、朝日奈央さんを号泣に追い込んだのも記憶に新しいですが、ネタ歌でさえ聞く人の涙を誘わずにはおかないという泣かせ屋ですから、ちゃんとバラードとして作った「手紙」も、泣かせ力が満載でしたね。

 眉村さんは、人の正直な弱さとか苦悩に、等身大で寄り添うのが非常に得意なシンガーソングライターだと思います。前述の朝日さんも、自分の辛かったことを理解してもらえた、と感じて、心が震えてしまったんじゃないでしょうかね。眉村さん自身もまた、歌手を志しながらアイドルとして右も左もわからない世界でもがいた経歴の持ち主ですから、ももクロの四人とも通ずるところがあるのかもしれないですね。

 人間、必死になって生きていると、周囲が見えなくなることもあります。その過程で、失敗したり、誰かを傷つけたりして、あとから思い返して悔やむこともあると思います。でも、たとえその瞬間に時間を巻き戻すことができたとして、はたして選択を変えることができるでしょうか。きっと、その時別の選択をするためには、その時に失敗して後悔し、人として成長しなければならないのです。過去の失敗を修正するためには、その失敗を経験しなければならない。パラドクスですね。

 つまり、どうやっても過去は変えられないのですから、過去の自分も受け入れるしかありません。でも、そういう弱い自分、誤った過去があるからこそ、今まさに苦悩している人に寄り添うことができる。

 ここまで、司祭の四人は、神の依り代、あるいは神に準ずる存在として信者たちの前に立っていました。でも、「手紙」によって、四人は自分たちがみんなとかわらない人間であることを改めて伝えているのだと思います。曲の冒頭では「ごめん」と自らの罪を告白し、懺悔をします。「懺悔聴聞」とは、洋画などで見たことがあることも多いと思いますけれど、教会内に設置された電話ボックスみたいな告解室で、神父さんに向かって罪の告白をし、神の御名に置いて許しを得ること。あまり、式典の中で大っぴらにやることではないのですが、「ごめん」というフレーズから、ある種の懺悔であるようなイメージを持ちました。

 後半が「ミサ曲」に順じているのであれば、この曲は「感謝の賛歌(サンクトゥス)」にあたるのかなと思います。「サンクトゥス」は、神の加護への感謝を歌う歌で、本来はアニュス・デイの前に歌われる歌なので、きっちりはめられているかはわかりません。でも、後悔した自分を、手紙という形で伝えるのは、裏を返せば自分をここまで導いてくれた人々への贖罪と感謝なのかな、とも思います。

■ 16 また逢う日まで

 式典のラストを締めくくるのは、尾崎紀世彦の名曲「また逢う日まで」のカバー。アレンジは、ヘイヘイこと宗本康兵氏。原曲のメロディーを活かしながら、軽やかで、エンディングにふさわしいアレンジにしてくれたと思います。

 若いモノノフさんはぴんと来ないかもしれないですが、ももクロのライブなどに行っていると、こういった昭和歌謡にも触れることができて、世代を超えた価値の再生産も魅力の一つだと感じます。南こうせつ、加山雄三、中島みゆき、松崎しげるといった面々は、僕世代より上のモノノフさんにはおなじみでしょう。僕は、西武ドームで坂本冬美さんの生歌に圧倒された記憶がありますね。

 歌詞は、同棲を解消し、別れてそれぞれの道へ旅立っていくカップルの一場面を切り取ったものだと思います。歌詞自体に「祝典」にかかわる意味はないかもしれませんね。でも、なんというか、式を終わらせるときは、こういう歌謡曲の定番ナンバーって妙にハマるんですよね。「サライ」とかね。

■17  Closing Session -梨-

 アルバムのラストを締めくくるのは、ジャジーで大人っぽいインストナンバー「 Closing Session -梨-」。鍵盤で繰り返される旋律が織りなす都会的なサウンドは、夜景を見ながら少しセンチメンタルな空気に浸る大人の姿を思い起こさせます。

 神殿から出た信者たちは、式典を終え、各々の生活に戻っていきます。帰路につき、夜の空気で少し冷めていく興奮の波。でも、まだじわりと熱さの残る胸の静かな高揚感。そんな心情が感じられる一曲ですね。

 そして最後に、各インスト曲「Opening Ceremony -阿-」「Intermission -闍-」「Closing Session -梨-」に添えられたサブタイトルを繋いでいくと、「阿闍梨(あじゃり)」という単語が浮かび上がります。

 阿闍梨とは、古代インド宗教(バラモン教など)における、宗教的指導者で、一般の信者や弟子たちに対し、教義や神の教えを説く役割を持った人間「アーチャリー(アーチャリーヤ)」のことです。それが、仏教に取り込まれて「阿闍梨」と音写されたものですね。仏教においても、修行僧たちの指導者となった僧の称号のような扱いで使われておりますが、山岳系仏教(修験道)では、千日回峰行などの修行を乗り越えた一握りの僧に与えられる称号でもあります。またも余談ですが、吉野山で千日回峰行を満行された塩沼亮潤大阿闍梨(大行満阿闍梨)は、僕の地元、仙台の出身なんですよね。地元からそんな僧侶が生まれるなんて、と驚きましたけれども。

 で、その「阿闍梨」がどうして、ももクロのアルバム曲で暗示されたのでしょう。今回のレビューの前編で、「祝典」におけるメンバー四人は「司祭」という立場であり、信者たちよりもひとつ上位の存在になっている、という話をしました。つまり、アイドルとして前人未到の快挙をいくつも達成し、コロナ禍というエンタメ界にとっての未曽有の苦難を乗り越え、年齢的にも(アイドルの中では)ベテランの域に達した四人が、その経験をもとに、祝典という祭事の中で、我々に教戒を与える「阿闍梨」という立場でメッセージを伝えていることを示唆しているわけです。

 前述の塩沼大阿闍梨も、とても人間業とは思えない苦行をいくつも乗り越えてこられた高僧ではありますが、ご本人は人間であることは間違いない。ただ、生死の狭間を生き抜いた経験から、人に生き方を伝えようとして、説法したり、講演をしたりという活動をされています。そういった「阿闍梨」の姿を、自分たちの人生を懸けて衆生(しゅじょう)を救うという役割に徹してきたももクロ四人の生き方と重ね、今回のアルバムにおける四人のスタンスを示すキーワードとしたのではないでしょうか。

■もう一つの視点

 ということで、前後編に渡ってももクロ6thアルバム「祝典」の全曲レビューをしてきたわけですけれども、アルバムコンセプトが「宗教儀式」であることはとてもはっきりと伝わってきたと思います。ただ、もう一つ、解釈の視点があるかな、とも思いました。

 式典(特に原始的な)というのは、なにか、神の奇跡だったり、戦争での勝利だったり、信者や民族にもたらされた素晴らしい出来事を模して、記録し、語り継ぐために行われることが多かったりします。では、この「祝典」における一連のプログラムは、何を模していたのでしょう。

 それはおそらく、ライブだったのではないでしょうか。前述の祝典式次第を、いつものももクロのライブの流れに置き換えてみます。

【ライブとの比較】
◆開場、入場
  01. Opening Ceremony -阿-
◆overture
  02. PLAY!
◆メンバー登場→自己紹介
  03. ダンシングタンク♡
◆ライブ前半(アゲ系セトリ)
  04. MYSTERION
  05. 満漢全席
  06. BUTTOBI!
  07. ショービズ
  08. HAND
◆衣装チェンジ、繋ぎVTR
  09. Intermission -闍-
◆ライブ後半(聞かせ系セトリ)
  10. momo
  11. なんとなく最低な日々
  12. stay gold
◆日没後のペンラ曲(「走れ!」など)
  13. 月色Chainon ももいろクローバーZ ver.
◆ゴンドラ周回
  14. 孤独の中で鳴るBeatっ!
◆ライブ後のメンバーコメント
  15. 手紙
◆アンコール
  16. また逢う日まで
◆終演VTR、退場
  17. Closing Session -梨-

 と、なんとなく、ライブのお決まりの流れに沿った感じがあります。もちろん、多くのライブも式典もセオリーに従っている部分はあるでしょうけれども、今回の「祝典」に関しては、僕は「ライブ」を宗教儀式になぞらえて表現したものなんじゃないかなあと思いました。それだけ、ライブを大事にしているグループだということですね。

■「祝典」とはなんだったのか

 さて、長々とレビューをしてまいりましたけれども、結論として、今回のアルバムにおける「祝典」とは、何を祝うものだったのでしょう。ここまでじっくり読んでくださった方はなんとなくわかったのではと思うのですが、これは「コロナ禍の終息を祝う式典」であったと思います。

 根拠、という言い方をすると無粋ですが、アルバム『祝典』は、2021年冬のリリース予定だったものが、一度延期されています。延期のアナウンスがあったのは、2021年9月でした。おそらく、アルバムが企画・制作されていたのは、リリース予定の半年ほど前、2021年5~6月頃だったでしょう。ワクチン接種が始まり、変異ウイルスによる第4波が収束してきた頃です。このまま終息すれば、夏から秋にかけてライブが再開でき、冬にはライブツアーができるだろう。そういう想定で制作スケジュールが組まれたのではないでしょうか。
 が、7月からオリンピック期間にかけて、デルタ株が猛威を振るった第5波がやってきます。結局、その流行は冬までには落ち着かないだろうという運営の判断で、8月~9月の間にアルバムリリース延期が決定します。コロナの渦中のリリースでは、このアルバムのコンセプトは意味をなさないからです。

 その後、オミクロン株による第6波がやってきましたが、ワクチンの普及もあってデルタ株に比べてかなり重症化しにくいことがわかり、社会全体がアフターコロナへと向かいます。そこでようやく、『祝典』のリリースのタイミングが来ました。延期していた「春の一大事」を開催し、この記事を執筆中の現在は、全国ホールツアー中。まさに、コロナ禍からの脱却をしている最中ですね。ここしかない、というタイミングでのリリースになったと思います。

 コロナ禍の世界では、アイドルは「無用の存在」になってしまいました。ライブは開催できず、ファンとの交流もできず、利益を上げることもできず、コロナ渦中の一昨年、昨年と、ライブ集客と物販が収益の要であったアイドルグループが、堪えきれずに軒並み解散していきましたね。

 人と人との直接的な繋がりが失われてしまって、エンタメ界に生きる人々は、アイデンティティの喪失を体験したのではないかなと思います。その苦しい体験をもとに、彼女たち、そして運営のオトナたちが見出した結論は、「自己肯定」。どんな世の中でも、一人じゃないこと。自分は自分のまま、過去を受け止め、今の自分を信じて生きていけばいいということ。孤立し、孤独感に苛まれていたとしても、自分を必要としてくれる人がどこかに必ずいて、横に並び、苦難を共有してくれていること。そんなメッセージが、一曲一曲に丁寧に込められていると思いました。

 まだ第7波がこないとは限りませんが、それでも、我々はどうやらコロナ禍を脱却し、以前の日常を取り戻そうとしています。でも、味わった苦悩、失ったものはとても大きかった。そんな世界の状況を記録して後世に残し、受けた傷をいやしながら、また再びみんなで集まることを祝う式典。それが、今回の『祝典』なのでしょう。コロナに翻弄された二年半を記憶し、彼女たちの優しい歌声に背中を押してもらいながら、我々はコロナ禍の終焉を寿ぐことといたしましょう。


 と、まあ、前後編大ボリュームとなってしまいましたが、全曲レビューはいかがでしたでしょうか。

 前述しましたけれども、僕の解釈が正解というわけではないので、こういった解釈も一つの話の種にしていただいて、モノノフさん同士で考察などしてみていただけるといいんじゃないでしょうか。

 以上、自己満足なレビューのご精読を感謝するとともに、また近いうちにニューアルバムのレビューができることを心待ちにしようと思います。


小説家。2012年「名も無き世界のエンドロール」で第25回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。仙台出身。ちくちくと小説を書いております。■お仕事のご依頼などこちら→ loudspirits-offer@yahoo.co.jp