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時間の目まいの中で「見出された時」――ロラン・バルト『明るい部屋』

 個人的な思い入れが強すぎてそう何度も読み返すことができない書物が、誰にでも一冊はあるのかもしれない。私にとってその一冊は、ロラン・バルトの『明るい部屋――写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房、1997年新装版)だった。いや、憶えている限りもう少し正確に言えば、初めてここに書かれた「ある真実」に刺し貫かれてからというもの、その傷痕の感触を手掛かりに繰り返し読んでいたのは間違いないのだが、ある時を境にこの本に直接には触れることがなくなった、というところか。最後に読んだのはおそらく5年くらい前のことだったと思う。「たったの5年しか」と言うべきなのか、「早くももう5年も」と言うべきなのか私には分からない。

 しかし、とにかく時間はすでに過ぎ去ってしまったのだ。時間――そう、初めて読んだ時から、そして暫くしてこのテクストに直接触れずにいた現在に至るまでも、忘れ去られることもなく不意に現れては私を突き刺しにやってくる「ある真実」は、この時間という秘密に関わっている。

ある種の写真に私がいだく愛着について(本書の冒頭で、すでにずっと前に)自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりその場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥムと呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕ステイグマ》)が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間」である。「写真」のノエマ(《それは=かつて=あった》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象である。

「39 プンクトゥムとしての『時間』」

 私が初めて本書を手に取ったのは、「写真論の名著」であるからとか、「ロラン・バルトの遺作」であるからとか、たぶんそういった文化的な関心(ストゥディウム)を理由にしてだったろう。しかし、前言取り消しになった第Ⅰ部の写真の本質をめぐる考察から、亡くなってしまった母の少女時代の写真を見つける第Ⅱ部を読み進むにあたって事態は一変していく。そして上に引用した章に至った時、「ある真実」が私を突き刺した――《というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり〔…〕私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである》(「10 『ストゥディウム』と『プンクトゥム』」)。あまりにも有名な文章であるが、39章から続けて引用する。

1865年、若いルイス・ペインは、アメリカの国務長官W・H・シュアードの暗殺を企てた。アレクサンダー・ガードナーが独房のなかの彼を撮影した。彼は絞首刑になろうとしている。この写真は美しい。この青年もまた美しい。ストゥディウムはそこにある。しかしプンクトゥムはと言えば、それは、彼が死のうとしている、ということである。私はこの写真から、それはそうなるだろうという未来と、それはかつてあったという過去を同時に読み取る。私は死が賭けられている過去となった未来を恐怖をこめて見まもる。この写真は、ポーズの絶対的な過去(不定過去アオリスト)を示すことによって、未来の死を私に告げているのだ。私の心を突き刺すのは、この過去と未来の等価関係の発見である。少女だった母の写真を見て、私はこう思う。母はこれから死のうとしている、と。私はウィニコットの精神病者のように、すでに起こってしまった破局に戦慄する。被写体がすでに死んでいてもいなくても、写真はすべてそうした破局を示すものなのである。

同上

 その写真を見つめる(現在の)バルトは《この圧縮された「時間」の目まいを感ずる》。写真の本質はすべて、こうした破局に、この《「時間」の目まい》にあるという。手元にある写真を見ることによって、それはかつてあったという確実性が示されるとしても、しかし同時に、それは過ぎ去ってしまうだろう(そして、すでに過ぎ去ってしまった)ということをも示していることになる。それならば、過ぎ去ってしまったものは、一体どこへ行ってしまったのだろう。《絶対的な過去(不定過去アオリスト)》とは、現在とは繋がりを持たない過去のことではなかったか。バルトは別の章で、写真は思い出ではないということを強調していた。

「写真」は、本質的には決して思い出ではない(思い出を表わす文法的表現は完了過去パルフェ〔現在とつながりをもつ過去〕であろうが、これに対して「写真」の時間は、むしろ不定過去アオリスト〔現在とつながりをもたない絶対的な過去〕である)。それだけではなく、「写真」は思い出を妨害し、すぐに反=思い出となる。ある日、何人かの友人が子供の頃の思い出を語ってくれた。彼らには思い出があったが、しかし私は、自分の過去の写真を見たばかりだったので、もはや思い出をもたなかった。〔…〕「写真」は部屋を《満たし》はしない。香りもなければ、音楽もなく、ただこの世の常ならぬものを示すだけである。「写真」は暴力的である。それが暴力行為を写して見せるからではない。撮影の度に、強引に画面を満たすからであり、そのなかでは何ものも身を拒むことができず、姿を変えることができないからである(…)。

「37 停滞」、〔〕内補注は訳者

 ただ写真は時間の破局を示すのみであって、かけがえのない母の写真をいくら見返しても、バルトは《もっとも愛する人の死について、何も言えない》(「38 平板な死」)。ほんとうは写真は、思い出のように過去を感傷やノスタルジーとともに想起することを許さないのだ。《過去と未来の等価関係》、しかし、この現在において、その不動のイメージを見つめる彼はたった一人でとり残されてしまった。写真が示す暴力的な時間の破局から被った彼の傷痕は、何よりもこの悲痛さに由来するものだ。しかしそれでもなお、彼はこの傷痕を手掛かりにするかのようにして、母の写真を幾枚も見続けることを止めない。そしてある時、ついに、母の真実を示す一枚の写真(少女時代の母の姿が写った《「温室の写真」》)を見つけ出した。

私はまたつぎのことも考察から省くわけにはいかなかった。すなわち、私は「時間」を遡ることによってその写真を発見した、ということである。ギリシア人たちは、あとずさりしながら「死の国」に入っていったという。つまり彼らの目の前あったのは、彼らの過去であった。同様にして私は、一つの人生を、私の一生ではなく私の愛する母の一生を遡っていった。死ぬ前の夏に撮った母の最後の映像(…)から出発して、私は四分の三世紀を遡り、一人の少女の映像に到達したのだ。私は目をこらして少女時代の、母の、母=少女の「最高善」の姿をみる。確かに、そのとき、私は母を二重に失おうとしていた。人生の最後の疲労につつまれた母と、最初の写真、私にとっては最後の写真に写っている母とを。しかしまた、まさにそのとき、すべてがひっくりかえり、私はついに、母のあるがままの姿を見出したのである……

「29 少女」

 バルトは実生活においても、病床にある母を看病しながら、母を自分の小さな娘のように感じていたという――《母は私の小さな娘になり、私にとっては、最初の写真に写っている本質的な少女と一つになっていた》。引用に続くその記述は、本書の中でもひときわ感動的なものだ。しかし、彼がこの写真を見つけ出したのは母の死後のことであったし、また当然のことだが、写真が撮られた母の少女時代に彼はまだこの世に生まれていない。そして何よりも、ただ時間の破局を示す写真は、《反=思い出》であり、現在と繋がりを持たない《絶対的な過去》なのである。時間にとり残されてしまった彼は、一枚一枚がそのような本質を持つ写真を見返しながら現在の時間から過去へ遡って行った末に、自分がまだ生まれていない時代の母の写真を見つけ出すことになる。「見出された時」――つまり、写真がもたらす《圧縮された「時間」のめまい》の中で、過ぎ去ってしまった時間をさらに遡りながら、ある意味で《絶対的な過去》としての自分が生まれていない時代に辿り着き、そこで彼自身の「ある真実」を見出した。

 偶然(?)私も引用を続けるにあたって本書の章を遡って行く形になってしまったが、いま再び問う――過ぎ去ってしまったものは、一体どこへ行ってしまったのだろう、そして、今にも過ぎ去ろうとしているこの現在はどこへ行くのだろうか、と。この幾度も繰り返されてきたに違いない問いは、写真を見ることでバルトが発した一つの《根源的な問いかけ》に対応するだろう。すなわち、《いったいなぜ、私はいまここに生きているのか?》という《単純な形而上学(複雑なのはその答のほうである)、つまりおそらく真の形而上学に属する問》(「35 『驚き』」)にである。私を突き刺した「ある真実」は、写真に孕まれたこの時間をめぐる問いに結ばれている。しかし、それを「ある真実」としか言うことができないのは、それは私が見出したものではなくて、バルトが時間の秘密を探求する中で見出したものだからだ(心に傷を与える決定的な《「温室の写真」》が、彼にとってしか存在しないように)。彼がこの本を書くにあたって当初賭けられていたのは、決して普遍的にはなり得ない還元不可能な彼自身の個別性(特異性)を通じて、写真の本質を発見することだった(「3 出発点としての感動」)。

 バルトが《「時間」の目まい》の中を探求することで見出された時間の姿は、過去・現在・未来と継起的に続いていく時間という一般的に定義されるものとは、まったく異なっている。つまり、還元不可能な一人の人間にとっての、個別的な(特異的な)時間の様相というものがあるのだ。私にとって本書は、初めて読んだ当初から、写真を出発点としたこの時間の秘密をめぐる探求の書だった。そして、いま再び読み返して実感したのは、この本それ自体が時間の秘密そのものであって、過ぎ去ってしまった時間が私に向かって発して止まない、あの《根源的な問いかけ》であり続けるだろうということだ。

 こうして本書は、《事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずる》という写真の《「狂気」》――すなわち《写真のエクスタシー》という謎めいた語で結ばれる(「48 飼いならされた『写真』」)。本書全体の探究を通じた結果、写真の本質がそう名付けられるのであるが、私にとってその本質は、もはや写真にだけ関わるものとは思えない。なぜならそれは、《「時間」の原義そのものを思い起こさせる》ものと言われるているからだ――《そこによみがえる手に負えない現実》……。何よりも傷痕が定着している写真は《「時間」の目まい》をもたらすのだが、その破局を見つめることから生まれた本書にも裂傷が至るところに走っている。

 私が初めて『明るい部屋』を読んだ時間と、また何度も読み返していた時間、そしてこの本に触れなくなっていた時間も、当たり前のように過ぎ去って行った。過ぎ去ってしまうだろう(そして、過ぎ去ってしまった)時間に突き刺された私は、傷痕を負った。しかし、裂け目は、時間それ自体においても、幾重にも開かれている。

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