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reproduction――市川沙央『ハンチバック』

1.身体

 それが差別的な蔑称だとしても、作品のタイトルは「せむし」を意味する身体の一つの様態を指す言葉だ。語り手は自身の身体をつぶさに描写する。「ミオチュブラー・ミオパチー〔筋疾患先天性ミオパチー〕」――「健常者優位主義マチズモ」たる読者わたしたちには、聞き慣れない名称だ――という疾患を背負って生きている彼女からすれば、嫌でも「極度に湾曲したS字の背骨」を持つ身体につねに注意を集中し続けなければならない。冒頭すぐに人工呼吸器に接続された身体が立ち現れるが、その身体においては呼吸することにさえ危険が孕まれている。

集中して最後まで書ききってしまう間に気道に痰が溜まって人工呼吸器トリロジーのアラームがピッポパピペポと小煩く鳴っていた。ホースを通って寄せて返す空気でかれこれ20分くらい攪拌され泡立った痰に、吸引カテーテルを突っ込んでじゅうじゅうと吸い出し、呼吸器のホースのコネクタを気管カニューレに嵌めると、(…)。

市川沙央『ハンチバック』、7頁

 呼吸を阻害する「痰」が何度でも生成されては、彼女はそれを吸い上げ掻き出すことを繰り返す。作中で執拗に描写されているように、その作業を何度繰り返しても、またどれだけ時間をかけようとも、「痰」は生成され続ける。あくまで淡々と「痰」に対処している彼女は、うんざりしながらもその作業に慣れきっているようにも見えてしまう。
 それでは、彼女の身体に伴ってつねに生まれ続けている、言葉についてはどうだろうか。たとえば、彼女自身はこんな風に言う。「せむしハンチバックの怪物の呟きが真っ直ぐな背骨を持つ人々の呟きよりねじくれないでいられるわけもないのに」(23-24頁)。しかし、そういった言葉たち自体も、最低限の揺らぎのなかで、あくまで醒めたものとして紡ぎ出されていく。

2.言葉

 WordPressで編集しているWEB記事の原稿がタグ付きのまま冒頭に置かれていることが特徴的なように、語り手によって様々なメディアを通して書かれた言葉たちが、作品のなかで重層的に織り込まれている。「考えてみれば、あらゆる活字には書き手がいる――通販カタログの商品説明の欄やキャプション、住宅・求人情報のチラシの文章も、必ずそれを書く誰かがいて」(14頁)と彼女は書くが、この記述自体も通信大学の課題に対するレスポンスとして書かれたものだ。
 彼女はそれぞれのメディアによって別々の名前を使い分けながら文章を書いている。たとえば、現実と地続きなグループホームの連絡に使われるLINEや大学のフォーラムでは社会性を持った「釈華」、ネット上の情報だけをつぎはぎして記事を書く男性向け風俗ライターは「Buddha」、小説投稿サイトで執筆する女性向け官能ライトノベル作家としての「Shaka」、というように。そして、人目に触れないTwitterの個人アカウント「紗花」は、上記三つの名と結びつきながら、「〈普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢です〉」(17頁)といった「社会の空気のリズムを乱す」(23頁)言葉を無防備に呟き続ける。
 ただし、SNSに代表される様々なメディア基盤によって、一つの人格が複数に解離していくことは、現在では誰にでもありふれたものかもしれない。しかし彼女にあっては、自身の身体的な要因のために「普通の人間」よりもその事態と密接に関わらずにはいられない。「午後9時から午前3時まで、人工呼吸器に肺を繋いだ私はiPad miniを両手に挟んで読んだり書いたりする機械だ」(36頁)。架空の風俗体験談やティーンズラブ小説、そして表象文化論ゼミのテーマ発表の原稿から、はては社会性を欠いた呟きにいたるまで、その文章がどんなものであっても彼女は書き続けている。
 さらにまた、彼女は作中至るところで紙の本を読むことの憎しみを露わにする。「本を読むたび背骨は曲がり肺を潰し喉に孔を穿ち歩いては頭をぶつけ、私の身体は生きるために壊れてきた」(46頁)という熾烈な一文にあるように、彼女にとって読書という行為は、「健常者」には想像を絶するほどの極度の身体的な負荷をかける。しかし、その行為によって「死に向かって壊れる」のではなく、「生きるために」「生き抜いた時間の証として」壊れる(同頁)、と彼女は言うのだ。そして、身体の破壊と伴って行われる読むという行為は、彼女が言葉を書き続けていることと緊密に結び付いている。

3.作品

 ここまで筆者は〈作品〉やその〈語り手(彼女)〉という言葉に対して、厳密に言及することなく曖昧に書いてきた。〈作品〉とは何か。何よりもそれは、現実とその場に生きる書き手自身の身体に立脚して作り出されたものだ。しかしまた、そうして作り出された世界は、現実から自律した強度を持つものでもある。ここで言うその強度とは、外部にある現実との折衝に耐え続ける力のことだ。
 この作品の〈語り手〉である「井沢釈華〔以下は釈華〕」は、重度の疾患を背負った身体を「生きるために壊」しながら、その身体と分かち難い言葉を日々書き続けている。そして、彼女はWEB上でそれぞれの文章を書くにあたっては名前を様々に変える。「泥がなければ蓮は生きられない」ように、実生活での「釈華」が生きるためには、「Buddhaと紗花」の「下品で幼稚な妄言」が、「蓮のまわりの泥」のような「沼から生まれる言葉」が必要であるから(52頁)。しかし、彼女のそれ自体はありふれたWEB上での振る舞い方以上に、書くことと名前を変えることの結び付きが最も如実に示されるシーンがある。
 決定的な出来事となるグループホームの男性介助者との身体的な接触――肉体的な「他者との摩擦」(38頁)、と言い換えうるだろうか――を「釈華」が経験した後、数日間の入院を経て彼女が再び帰宅したところで作品は終盤を迎える。ところがここで唐突に、旧約聖書『エゼキエル書』からの一節が、一つの謎のように引用される。そのまま作品は閉じられることなく、さらにその引用に続いて、「*」によってそれまでの世界からは区切られた別の場景が立ち現れてくる。この時、一人称の語り手が「釈華」ではなく、風俗嬢として働く大学生の「紗花」――「釈華」は、「紗花」というアカウント名で「〈生まれ変わったら高級娼婦になりたい〉」(39頁)と呟いていた――に変わっていることの重要さに、読者の誰もが気づくだろう。
 この結末についてはどのような解釈をすることもできるが、筆者はそれを特に問題にしない。肝腎なことは、『ハンチバック』という一つの作品が閉じられようとするその直前に、言葉によって語り手が別の身体を持つ生に変様していることであり、それまでの語り手の存在が識別不可能なものになっていくことだ。WEB上で文章を書くにあたって「釈華」は名前をそれぞれに変えていたが、彼女の語りの同一性は依然保持されたままだった。しかし、この場景が誰によって語られているもので、誰によって書かれたものだと解釈するにしろ、それまで彼女が名前を変えて言葉を書き続けていたことの複数性が強調され、語り手の不確かさが作品全体にわたって残り続ける。さらにこの場面では、もはや人称だけでなく時制すらも不明瞭なものになっていく。「私〔=紗花?〕の紡いだ物語」「彼女〔=釈華?〕の紡ぐ物語」「釈華が人間であるために殺したがった子を、いつか/いますぐ私は孕むだろう」(92-93頁、強調引用者)。それゆえに読者は作品に触発され、解釈の言葉たちを新たに生み出すことになる。

4.生

 ところで、そうであるならば、この『ハンチバック』という作品が、「釈華」と同じ疾患を背負った当事者である市川沙央という名の〈作家〉によって、作家自身の生きる現実と身体に立脚して書かれたことは、どのように考えるべきだろうか。
 先に定義したように、作品とは、現実に生きる書き手自身の身体なしには作り出されえないものである。現実の身体が生み出し続ける「痰」と、「蓮のまわりの泥」のような「沼から生まれる言葉」たち。一人の〈作家〉は、それらすべてを一つの自律した作品にまで駆り立てようとする。そして、現実の生との軋轢なしに作り出されえないものが一つの自律した作品として生み出されたとき、翻って今度はその作品が現実の生に何らかの出来事をひき起こすものになる。
 「泥の中に真白く輝かしい命の種が落ちてくる」(93頁)。作品、つまり作家の書く身体に伴って生まれた言葉たちが、一つの新たな生――言葉によって作られた新たな身体――として、外の現実に放たれる。
 「考えてみれば、あらゆる活字には書き手がいる」。一つの作品は、一人の書き手の身体の特異性を伴うことなしには生まれえない。そして、生み出されたその言葉を読む者たちの、それぞれの身体をも伴うことになるだろう。そのとき、現実から自律した強度を持つ作品の言葉は、現実の生にどのような影響を及ぼすのだろうか。わたしたちは身体が何をなしうるかを知らない。それと同様に、身体に伴って生み出された言葉たちが、生に対して何をなしうるか、何を新たに生み出すことになるのかということもまた、未だ予見不可能なのである。あらかじめ「健常」とされた身体/言葉など、自律した作品のなかでは、実は何ひとつとして存在しないように。

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