苦手なもの(続)
先日、「苦手なもの」と題して、作文と算数が苦手と書いた。今回はその続き。
小学校2年生だったと思う。国語の教科書で「きかんしゃやえもん」という話を読んだ。
蒸気機関車のやえもんは、新しい電車に馬鹿にされる。腹を立てたやえもんは、火の粉をまき散らしながら走り、線路沿いの畑が火事になる。苦情のせいで鉄屑にされそうになるが、古く貴重だと博物館に引き取られ、子供たちに喜ばれ幸せに暮らす。
「このお話を読んで、みんなはどう思いますか?」
心の中の私。
「そもそも機関車は喋りません。年寄を大切に、という教訓はわかりますが、機関車に限らず、古く不便なものより、新しく便利なもののほうが、たいていの場合、好ましいというのが 本当のところではないでしょうか」
今の自分の言葉に訳せばそうなる。その場にふさわしい言葉というものがあり、そんなこと言えないことくらいは子供でもわかる。自分の本心と、周囲から求められる自分との落差を感じたまま押し黙り、まともな感想が言えずにいると、「やえもんさんは幸せになってよかったと思います」とたどたどしく発表する子がほめられたりする。
小学校の授業なんてそんなもので、いちいち目くじらを立てても仕方がないというむきもあるかもしれない。でもそれは大人になっても同じではないか ー いくら儲かってもそれは人としてしてはいけないことではないのか。その笑顔は、言葉は、心から出たものでない限り、金のために売ってはならないものではないか。私がいかに出世できないか、これでおわかりいただけると思う。
芥川龍之介は小学校1年生の国語の時間に、可愛いと思う動物を書きなさいという設問に「象と蟻」と答え、× をつけられたことに腹を立てたという。ありえないことではあるが、今後もし好きな女性から胸の内をきかれたら答えようと思う。「動物のように可愛い」と。
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