![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/110372123/rectangle_large_type_2_d3677cf0aacdeb6254b4971b8ed4fc8b.jpeg?width=800)
「明治お雇い外国人とその弟子たち」片野勧
明治期の主なお雇い外国人についての紹介です。
フルベッキ、ポンペ、ヘボン、ボアソナード、キヨッソーネ、クラーク、コンドル、モース、フェノロサ、メッケルなどなど含め25人について短い紹介がありました。
冒頭、なぜ日本は急速な近代化ができたのかと言うことについて、その理由が記されていました。以下の通り。
①分野によって雇った人たちの国籍が異なっていたことで、どこか一つ、あるいは少数の国の植民地になることを防げたこと。
②外国人を雇い入れても和魂洋才を忘れず、強い独立国を希求し続けた気概が学びを受けた日本人にあったこと。
③外国人は日本の文化や日本人の人間性に感心し、世界に発信していったこと。
なるほど。
お雇い外国人にはさまざまな職種があり、宣教師として来日しつつ技術伝授した人、本国で孤立して日本で新天地を求めた人、日本に強い関心を抱いた人、日本からの留学生を教えたという縁からの人、はたまた祖国での食い詰め者もいたそうですね。
概して報酬は高く、庶民の月収が10円、総理大臣の月給が800円のところ、ボアソナードはもっとも高くて1250円取っていたそうです。
最も安いモースで350円。
彼らのうち何人かは日本の美術コレクターとなり、それを本国に持ち帰っています。日本の芸術品が国外に出ることを憂慮する人々もいましたが、結果として、それらは消失することなく保存されていて、逆に日本美術の啓蒙に大いに役立っているそうです。
さて、それぞれについてです。
エルヴィン・ベルツは27歳の明治9年に来日し、29年間東大医学部で教えています。
弟子の総数は800名、それぞれが日本医学会の枢要の地位に就き、日本医学の発展に寄与たようです。
弟子には森鴎外や北里柴三郎などもいます。
その功績より日本の近代医学の父と呼ばれているそうです。
地方を周り、風土病の研究をし、温泉の効用を説き、柔術などの武道を教育に取り入れることを勧めたり、さまざまな活動を行なっていました。
人間としても優れた人物であり、弟子たちに慕われたようです。
モースは来日して二日後に大森貝塚を発見しています。
腕足類の研究のために来日したのですが、東大の動物学講座が開設されるにあたり、教授として招かれています。なんと彼は母国で小学校しか出ていないのでした。
彼は「進化論」の講義も行っています。
「進化論」は当時まだタブーとされた理論であり、日本で一般人がこの「進化論」を知ったのはこの時が初めてだそうです。
また、彼は日本がゆくゆく西欧化の波に飲み込まれてそれまでの文物が失われてしまうと考え、それを防ぐためにもたくさんの美術品、工芸品の他農具などの民具をアメリカに持ち帰っています。
今となってはそれらが当時を知る貴重な史料となっているようです(写真も撮って残しています)。
モースは3年で日本を離れましたが、日本を愛する気持ちは強く、関東大震災で東大の中央図書館が全焼したことを知り、遺言に彼の全蔵書を寄贈するよう追記し、実際に彼の没後、一万二千冊が贈られたとのことです。
お雇い外国人には大金だけ取っていい加減にしか働かなかったというタチの悪い人もいたようですが、かなりの人たちが日本の近代化に心を込めて打ち込んでおり、三流国日本を馬鹿にすることなく、近代国家に育て上げようとしました。
お雇い外国人たち本人の意思もそうだったのでしょうが、真剣に学ぶ学生たちに打たれたところもあったようです。
貧しいが、まじめで熱心に生きていた人たちのいた当時の日本は、お雇い外国人たちの知的好奇心を刺激するいい時代でもあったようです。
とても羨ましいですね。
ヘボンはニューヨークの大病院を経営する大金持ちでしたが、キリスト教の宣教のために維新前に来日しました。
その傍ら眼病他の治療を行いました。大村益次郎、高橋是清なども教え子だそうです。
ヘボン畢生の仕事は二万語にもなる「和英語林集成」(和英辞典)です。
ニューヨークやロンドンでも発売され、この版権は丸善に譲り、そのとき得た二千ドルをすべて初代学長となった明治学院に寄贈しています。
また、新約聖書の和訳も行っています。
体を壊してアメリカに戻り、その後20年存命しましたが、日本への思いは1日たりとも忘れることはなかったそうです。
人格者中の人格者、ラファエル・フォン・ケーベル。
東大で哲学を教え、東京音楽学校で美術史やピアノを教えました。誰に対しても偉ぶらず、金銭に淡白であり、生涯独身だったそうです。
座右の銘は「世人やその習慣に遠慮するな、汝自身であれ」(p330)。
最後の遺言は最も身近な弟子である久保勉に「僧侶は呼ぶな。お前が僧になって聖書中の美しい句を読んでくれ」(p331)とのことでした。
まだまだ紹介されてますが(計25名)、この辺で。
興味のある方はぜひぜひ手に取ってください。
「お雇い外国人調査記録」もついでに読んでみました。アンケート集でした。
当時、アンケートをとるという発想のあった日本人もすごいですね😆
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?