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(メモ)TOLAND VLOG浦島太郎考察(3)〜温羅、ヒミコ、崇神天皇とその後
続き。
鬼退治。
正統竹内文書では7代孝霊天皇〜10代崇神天皇の時代に起きたとされている。
桃太郎が温羅一族を倒し、ヒミコを擁立して国をまとめた。
孝霊天皇の母・倭国香媛(意富夜麻登玖邇阿礼比売命)は出雲族の姫。
つまり一時、日向族に奪われていた権威を出雲族が取り返した。
→ 政変があった
→大和と出雲という二極ではなく、渡来系民族服めたいろんな国が入り乱れての戦乱状態だった
温羅一族とは何者か?
吉備国(岡山)の鬼の一族。
製鉄技術により機微を発展させた渡来人。たたら製鉄。出雲との関わり?
どこから渡来してきた?(記紀には記されていない)
・百済から?
・新羅から?
・九州から?
・出雲から?
9代開化天皇
10代崇神天皇
この時代もヒミコが祭祀王だったが死亡するとまた大戦乱。第二次倭国大乱。
そこでヒミコの流れを汲む「トヨ」を2代目ヒミコに。
トヨ=豊鍬入姫、崇神天皇の娘
崇神天皇
崇神の母は物部系
伊香色謎命(いかがしこめのみこと、生年不詳 - 崇神天皇元年1月13日以降)は、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后。『日本書紀』の表記であり、『古事記』には内色許男命の娘で「伊迦賀色許売命(読み方同じ)」とある。父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。同母兄に伊香色雄命がいる。彦太忍信命(父は孝元天皇。武内宿禰の祖父(記では父)。磐之媛命の高祖父(記では曾祖父))・崇神天皇(父は開化天皇)の母。
『日本書紀』での名は御間城入彦五十瓊殖天皇。祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる御肇国天皇。実在した可能性のある最初の天皇[2]とする説があり、考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定されるが、定かではない。
略歴
稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の第二皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部氏の系譜に連なる。異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王(神功皇后の祖)。19歳で皇太子となる。
即位3年、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に都を移した。
即位4年、詔を発して万世一系を謳った。
即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた[3][注 2]。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬[注 3]に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった。
即位7年、「昔皇祖大いに聖業高く国は盛であったのに、朕の世になり災害が多い。その所以を亀卜にて見極めよう。」と詔して、神浅茅原に幸して八百万の神を集めて占った。すると倭迹迹日百襲姫命に大物主神が乗り移って自分を祀るよう託宣した。神の教えのままに祭祀を行ったが霊験がなかった。そこで天皇は沐浴斎戒して宮殿を中を清めて、「願わくば夢に教えて、神恩を示してほしい」と祈った。するとその夜の夢に一人の貴人が現れ自ら大物主神と称して「もし我が子の大田田根子を以って我を祭ればたちどころに平安となる。」と告げた。続いて倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の三人がともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市にせよという神託を受けた。そこで大物主神の子とも子孫とも言われる大田田根子が探し出されて大物主神を祭る神主となった。三輪山を御神体とする大神神社の始まりである。市磯長尾市(いちしのながおち)も倭大国魂神を祭る神主となった。すると疫病は終息して五穀豊穣となった。
即位8年、活日(いくひ)という者を大神の掌酒(さかびと)とした。そして活日が神酒を捧げて歌を詠み、続けて諸大夫(役人)と天皇もそれぞれ歌を詠んだ。
此の神酒は 我が神酒ならず 日本成す 大物主の 釀みし神酒 幾久 幾久(活日)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 出でて行かな 三輪の殿門を(諸大夫)
味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開かね 三輪の殿門を(崇神天皇)
疫病の流行で人口が半分に
→ 国内の大戦争によって人が死にまくったのでは?
大田田根子(意富多多泥古命)、倭国の祖神を祀ったら平和になった。
→ なんで?
ちなみに
・大田田根子
三輪山の神である大物主神、または事代主神の子孫または子で、神君(三輪氏、大三輪氏、大神氏)、鴨君(賀茂朝臣氏)、石辺公の祖先とされる。
なお事績や活動年代、系譜等から、宝賀寿男は大物主神と事代主神が同神であると主張した
父は、『古事記』によれば「大物主大神が陶津耳命の娘である活玉依毘売を娶って産んだ櫛御方命の子の飯肩巣見命の子の建甕槌命の子」とされ、『日本書紀』では大物主大神と活玉依媛の子とされる。子には大鴨積命、大友主命[注 2]、大多彦命、意富禰希毛知命がいたとされ、三輪氏(神氏、大三輪氏、大神氏)、鴨氏(賀茂朝臣氏)、神人部氏、神部氏などの氏族を輩出したと伝わる。
・市磯長尾市
『日本書紀』に伝わる古墳時代の豪族で倭国造の一人。市磯長尾市宿禰とも。
倭直(倭氏)の遠祖である。倭大国魂神(奈良県天理市の大和神社祭神)の起源譚で知られる。『古事記』に記載はない。
『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条によると、倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君ら3人は同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にすると必ず天下太平になると夢告があったと天皇に奏上した。そこで崇神天皇7年11月8日、夢告の通りに大田田根子と長尾市とに祀らせると、疫病は収まって国内は鎮まったという[1](垂仁天皇25年3月条の「一云」でも同様)。
また同書垂仁天皇3年3月条では、「一云」として、三輪君祖の大友主とともに新羅から渡来した新羅皇子の天日槍を尋問するため、播磨に行くよう天皇から命じられたとある[1]。
さらに同書垂仁天皇7年7月7日条によると、当麻蹶速の相撲相手として出雲の野見宿禰を連れてくるよう命じられている
四道将軍
即位9年、天皇は神が夢に現れたと称し大和国の東口に座す墨坂神と西口に座す大坂神を盾と矛をもって祀った。
即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし従わないものを討伐させることとなった。しかし北陸へ出発した大彦命は和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)で現れた不思議な童女から不吉な歌を聴くことになる。
大彦:孝元天皇の第一皇子
武渟川別:孝元天皇の第一皇子である大彦の息子
吉備津彦:孝霊天皇の皇子
丹波道主:開化天皇の孫
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4人が派遣された各地に強力な敵がいた。
ヒミコ亡き後、大和朝廷と各地強豪との戦いを示している。
(続く)
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