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ひだまりカフェの新メニュー「喜怒哀楽のスープ」〈#motohiroとカフェ〉

今日もわたしはあのカフェに向かう。お目当ては限定ランチ。それから、あのチーズケーキ。

✳︎

わたしの朝は、ルーティンから始まる。顔を洗い、さくっとメイクをする。残念ながら口紅が似合うような顔ではないから、パウダーファンデーションにチークを少しのせるだけ。

そして食パンを半分に切り、バターを塗って温める。いつかの帰り道に買った"幸福の木"を眺めながら、食パンをいただく。そして朝食のお供、牛乳をゴクリと飲み干し、会社に向かう。

通りすがりに振り返られるような美人でもないから、目の前が突然輝き始めるようなアクシデントも起きない。

会社に着いたら、みんなの机を拭き、給湯室のお湯を沸かす。

仕事は不動産の営業事務。次々依頼される業務にミスをしないか怯えながら働いている。この仕事も向いているとは思えない。

時計ばかりが気になる。ランチまであと1時間。あと30分。5、4、3、2、1 、!!

チャイムが鳴った。待ち焦がれたランチの時間!

ひだまりという名のカフェ。わたしは毎週水曜日、そこに通うことにしている。会社から少し離れたところにあるから、自転車に飛び乗り、急ぐ。

ひだまりカフェは喧騒から離れた、木々の生い茂る場所にひっそりとある。楓の木の下、いつもの場所に自転車を停める。

わたしはいつも通り、窓際の席に腰をかけた。窓には蔓が青々と伸びていて、その隙間から夏の日差しが入る。テーブルと椅子は、ウォールナットの無垢材。木の温かみが優しい。

いつものランチ…と思ったが、新メニューに目が止まった。

〈喜怒哀楽のスープ 自家製フォカッチャ付き〉

振り子時計が時を刻む。コチコチコチコチ。

黒猫さんが声をかけてきた。「いつものランチですか?それとも新メニュー?」

黒猫さん。本名なのか分からないけれど、みんなそう呼んでいる。艶々の黒髪に、まん丸の目、八重歯が少し覗く可愛いらしい口。

わたしは少し迷って「新メニューで!」と答えた。黒猫さんは人懐こい笑顔で「ありがとうございます。」と応えた。

キッチンの奥で店長さんが料理をつくっている。黒猫さんが店長さんにオーダーを通すと、彼はいつものように柔らかな笑顔をこちらに向けた。

店長さんの空気感が好きだ。彼の周りは緩やかな時間が流れていて、カフェに来るとみんなゆっくり深呼吸がしたくなる。それから、彼のつくる不思議な料理もリピーターになってしまう理由。

ほどなくして、黒猫さんが"喜怒哀楽のスープ"と焼き立てのフォカッチャ、ナッツが沢山振りかけられたサラダを運んできた。わたしのお気に入りのハーブティを添えて。

ひだまりカフェの飲み物は、真夏でもほとんどがホット。店長さんがホット好きらしい。わたしも年中ホット派なのでとてもありがたい。

黒猫さんがわたしのテーブルに料理とドリンクを並べ終え、「ごゆっくり。」と意味深な笑顔でその場を離れた。

そっと"喜怒哀楽のスープ"を覗き込む。見た目はミネストローネに近いかな。じっくり煮込んだ野菜に複数のスパイス、少しエキゾチックな香りが漂う。

わたしは目を瞑りゆっくりと唱える。「いただきます。」ハーブティをひと口飲んだあと、スプーンをスープにくぐらせた。

ひとくちめ。身体に染み渡るような優しい味が口いっぱいに広がった。ほっとする。そしてどこからか、喜びの気持ちが湧いてきた。子どもの頃、家族に祝ってもらった誕生日。母の手作りケーキをみんなで囲む、あの感覚。揺らぐ蝋燭の炎。あぁ…幸せ。

ふたくちめ。突然ピリッとした辛味が口に広がり、ふつふつと怒りの気持ちが湧いてきた。先日の職場での出来事を思い出す。ミスした担当者が雲隠れ、上司も知らんふり、結局わたしが取引先に謝りに行った。全てが丸く収まったあと、彼は何事もなかったように戻ってきた。あぁ…悔しい。

さんくちめ。舌が酸っぱさを感じとり、思わず口を窄める。なんだか哀しい気持ちが湧いてきた。「お前、つまんないもん。ブスだし。」そう言い放った彼氏のことを思い出した。はじめての彼氏とは3年の時を共にしたが、最後にわたしの心をズタボロにして消えた。ぽろっと涙がでる。あぁ…哀しい。

よんくちめ。爽やかな味が口に広がり、楽しい気持ちが湧いてきた。なんだか、チカラが漲る。バレエを躍っていた時の心躍る、あの感じ。バレエ一色だった、15年間を思い出した。"くるみ割り人形"の曲が頭の中を流れる。あぁ…心が弾む。

あぁ、喜ぶって、怒るって、哀しむって、楽しむって…こんな気持ちだった。

大人になるにつれ、人前で愛想笑いばかりするようになった。感情に蓋をして、周りに波風を立てないように、目立たないようにしてきた。自分が傷つかないように。

…最近、心を震わせる出来事はあったかしら。

笑って、怒って、泣いて、感動して。後悔して、希望をもって。それでいいじゃない。"感じる"って"生きる"ってことなんじゃない?

感情の波が押し寄せるスープに翻弄されながら、そんなことを想った。

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今日は水曜日。ひだまりカフェに行く日。

わたしの朝は、ルーティンから始まる。顔を洗い、日焼け止めを塗ったら、3キロのジョギングに行く。帰宅したらシャワーで汗を流し、さくっとメイク。パウダーファンデーションにチークを少し。ビューラーで睫毛は上向きに。

そして、玄米ご飯と野菜たっぷりの味噌汁。目を瞑ってゆっくり唱える。「いただきます。」

家を出る前に最後の魔法。オレンジ色の口紅をそっと唇にのせる。さあ、行ってきます!

会社に着いたら、みんなの机を拭き、給湯室のお湯を沸かす。そして、とびっきり良い香りのコーヒーを自分のために丁寧に入れる。

いつもより早く出勤してきた営業マンが、息を切らしてこちらに来た。「Kさん、おはようございます!昨日の案件、決まりましたよ!あの資料、Kさんですよね!?あれ、めっちゃ良かったです!」わたしはにこりと微笑む。

時計が気になる。ランチまであと1時間。あと30分。5、4、3、2、1 、!!

チャイムが鳴った。待ち焦がれたランチの時間!

「休憩いただきます!」と1番に席を離れる。自転車に飛び乗り、カフェへと急ぐ。

あぁ今日も最高。ひぐらしが鳴いている。ちょっぴり冷ややかな風も頬に快い。

いつもの場所に自転車を停めた時、背の高いメガネの男性に声をかけられた。確か…彼も水曜日の常連さんだ。

「あの…よかったら、お昼一緒にしませんか?」

わたしはにこりと微笑む。楓の木から色付いた木の葉がはらりと落ちた。

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↓motohiroさんのこちらの企画に参加させて頂いた作品です。motohiroさんのいくつかのnote、そして如月桃子さんのカフェイラストから発想を飛ばしました。店長さんは言うまでもなく、motohiroさんです。