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粉々のエメラルドグリーンは彼女を想う〈キリン×また乾杯しよう〉

白い雲はうすいピンクと青藍に染まり、空を絶妙なコントラストに仕上げていく。姿を現し始めた月は十三夜。白い砂浜はいつもより広く、波が穏やかにうたう。

そこで少女は、くすんだエメラルドグリーンのカケラを拾った。 

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ぼくがぼくに気づいた時、そこにはたくさんの仲間がいた。

いくつかの記号と絵、それを囲むダイヤモンドシェープが彫りこまれた、美しいエメラルドグリーンのガラス瓶。

そこに太陽と柑橘のような清しい香りをまとう黄金色の液体を注ぎこみ、息吹を与えられる。

「素」というコンセプトの通り、首には凛とした品の良いラベルを、頭にはロゴである「大樹」を描いた栓を。それは、ぼくらを少し誇らしくさせる。

誕生して間もなく、ぼくらはすぐに世界中へと運ばれていく。

ぼくは、仕切りのある籠に詰められ、乗り物に乗せられた。その扉が閉まる時、どこからか「おまえら、ちゃんと誰かを幸せにしてこいよ。」という声が聞こえた。

その意味を考えながら、カタカタカタカタと音を立ててぼくの旅は始まった。

ぼくの最初の居場所となったのは、大きなガラスケースだった。周りにはカタチの違う、でも何か似たもの同士のような、そんなやつらに囲まれていた。

ガラスケースの扉が開く度、ひとり、またひとり、誰かの手によって外の世界に連れだされていく。

ぼくを選んだのは、ひとくみの男女だった。

麦わら帽子をかぶった彼は、ガラスケースの中にいるぼくを見つけると、迷うことなく手を伸ばし、外に連れ出した。

短い髪がよく似合う彼女は、ふわりとした白いワンピースを着て、茶色の紙袋を大事そうに抱えていた。

はじめての出会いにぼくは少し緊張していた。外界の温度との差で、エメラルドグリーンのからだに水滴がつたうのを感じる。

外の世界は、暗闇とほのかな光で満たされていた。そこには、静かな賑やかさがあった。

彼が彼女の歩みに寄り添う。何やら楽しそうに話しをしながら、立ち止まって夜空を指差したり、見つめ合って微笑んだりしていた。

ぼくが連れ帰られたのは、ふたりの家。彼は白いキッチンカウンターの上にぼくを置いて、彼女を呼び寄せた。

彼女は茶色の紙袋を抱えたまま、カウンターに近づく。彼は片方の手をぼくの頭に添え、もう一方の手の小指を彼女に向けて、何かを唱えた。

彼女は少し驚いたような表情をしたあと、微笑みながら頷き、彼の小指に自分の小指を重ねた。

それが何を意味するのか。ぼくには分からなかったけれど、ふたりとぼくは"これからの何か"を共有した。

そして、彼女は茶色の紙袋から小さな緑色の何かを取り出し、そっとぼくの隣に置いた。緑色のそいつは、表面にトゲトゲの何かを纏っていた。

そいつはぼく同様に動くことはなかったが、確かに何かしらの意思をもっていた。ぼくとそいつはしばらく同じ時を過ごしたが、一度も言葉を交わすことはなかった。

毎朝、彼女はぼくを柔らかな白い布で拭く。大事そうに、そっと。くすぐったくて、どこかおもはゆい。ぼくはその時間が好きだった。

それから緑色のそいつに優しい声で語りかける。そして、時折り、数滴の水を丁寧にかけていた。

家に明るい陽が差し込む時間、彼女は窓際にぼくを連れて行き、空にかざす。太陽の光がぼくのエメラルドグリーンを通り抜け、白い床に踊る水流の影を落とす。彼女はそれを愛おしそうに眺めていた。

彼はいつもどこかへ出かけているようだった。同じ服を着てどこかへ出かけ、そして帰ってくる。家にいる時の彼は、いつも彼女の話を大きく頷きながら嬉しそうに聞いていた。

彼女はほとんど家にいたが、部屋の隅にある机の上に置かれた四角いものに向かって忙しそうに指を動かしていることが多かった。そしてある時間になると、キッチンに立ち、良い匂いのする何かを作っていた。

彼らはよく手を繋いで外に出かけていった。そんな時、彼は、ぼくと出会った時にかぶっていたあの麦わら帽子をいつも手にしていた。

窓から入ってくる空気が乾き、透き通った風を感じるようになった頃。

長い間、形を変えることのなかった緑色のそいつは、静かにそっと白い膨らみを身につけた。

彼女と彼はそれを見つけてとても喜んだ。その夜、ふたりは長い時間、キッチンカウンターの上のそいつを眺めていた。

その時、ぼくは"しあわせ"というものを見た。そんな気がした。

ぼくが彼を見たのは、その日が最後だった。

緑色のそいつがはじめて白く小さな花を咲かせた日、彼女は黒い服を着て泣いていた。

その日を境に、彼女は緑色のそいつに水をあげるのをやめた。

ぼくを柔らかなあの白い布で拭くことも、窓際でエメラルドグリーンを愛でることも、四角い何かに向かって指を動かすことも、キッチンで良い匂いをする何かをつくることも、全部やめてしまった。

緑色のそいつが茶色になり始めた頃、彼女はおもむろにぼくを掴み、外に出た。

あたりは薄暗く、空が不穏な音を鳴らしていた。着いたのは海。

はじめて見た海。その時海は、白い波で浜を削り、大きな音を響かせていた。

彼女は、波打ち際からほどなく離れたところに座り、ぼくを隣に置いた。

彼女はどこかを見ているようで、どこも見ていないようだった。空も海も黒さを増していく。

彼女の髪の毛が風で舞う。

潮が彼女の足元に迫っても、彼女は口を閉ざしたまま、動かなかった。膝を抱えて力なく座る彼女は、このまま暗闇に飲み込まれそうに見えた。

突然、雨が降り始め、一閃の光が海に落ちた。その瞬間、彼女の目は、はっきりと意思を持った。彼女は慎重に立ち上がり、決起するようにその場を立ち去った。

ぼくを置き去りにして。

ぼくは、彼女を"しあわせ"にしたかった。緑色のそいつが白い膨らみでそれをもたらした様に。

置き去りにされたぼくは、彼女を待ち続けた。

空から落ちるたくさんの雨粒がぼくを打ちつけたり、海が迫ってきて波に遊ばれたり、太陽の光を浴びてエメラルドグリーンを砂浜に映したり。いつしか、持ち主のいないぼくは浜の一部になっていた。

ぼくはいつも彼女のことを想っていた。それから、茶色になってしまったそいつのことも。

ある夜、知らない手によってぼくは地面から拾い上げられた。その手は、彼女や彼とは明らかに違っていて、ぼくは嫌な予感がした。

その手はぼくを高くかかげ、そして力任せに振り下ろした。ぼくは一瞬宙に舞い、そして、大きな岩に衝突した。

その瞬間、ぼくのエメラルドグリーンのからだは真っ二つに割れ、彼女を"しあわせ"にするはずだった黄金色の液体は、ぼくの意思とは関係なく流れ落ちた。

あたりにふわりと柑橘系の香りが漂う。この香りは彼女のためにあったのに。ぼくはそう思った。

ぼくはもう、彼女を"しあわせ"にすることができない…

バラバラになってしまったぼく。飛び散ったカケラを集める術もなく、ただ時を過ごした。

潮や風、鳥、そして誰かの手によって、ぼくのカケラはいろいろなところへ運ばれた。

黄金色の液体と太陽が降り注ぐようなあの香り、そして誇らしかったラベルや栓を失い、ただのガラスになりさがったぼくは、潮に導かれ、海の中を彷徨った。

ぼくは、はじめてふたりと出会った日のことを思い出していた。彼が彼女と小指を重ねたあのときのことを。彼と彼女とぼくの間に確かに流れた何かを。

ぼくがふたりに与えるはずだった"しあわせなひととき"は、永遠に来ない。

何度もの漂流、漂着を重ね、ぼくは少しずつ少しずつ削りとられ、小さくなっていった。

かつて光を通していたぼくのエメラルドグリーンは、いつしかくすんだ緑色になっていた。

もう二度とぼくは太陽の光を通すことはない。

今となっては、ぼくの一部だったあの香りさえも思い出すことができない。

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今日の空はひどく優しい。変わりゆく雲が誰かの慰みのように感じる。こんなに静かな空ははじめてだ。

そうか。ぼくはこのまま消えゆくのだろう。

"しあわせ"にしたかった彼女のことを想う。

どうか、どうか、彼女が"しあわせ"でありますように。

消え入りそうな意識の中で、小さく柔らかな手に拾い上げられるのを感じた。

最後に微かに見えたのは、あの麦わら帽子をかぶった少女の顔。

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少女が嬉しそうに叫ぶ。「ままぁーっ!」

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