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「火の発信」と「風の発信」

2021年から2022年辺りにかけてのツイートまとめ。「発信」には「火の発信(自分語り)」と「風の発信(コミュニケーション)」があるよという話を折に触れてやってきた。

【2021年11月30日の連投】
「表に出しているもので『どんな人なのか』を判断される」。「何も表に出さなかったら『よくわからない人』と思われる」し、「『自分が何を表に出しているのか』に無自覚なまま危険な要素を表に出している場合でも、やっぱり『危険な人』と判断される」

元イさん(※後述)発のこの話題を見てると「ああこれ12サインの奇数偶数の話」「『自分や他人の放つ火・風要素が他人や自分の備える地・水に受けとめられていく話』でもあるし『太陽が発信して月が受信する話』でもある」って当番思う(いつものこの表、向かっていちばん左端「熱・冷」の話である)。

これの話ね。西洋占星術では12サインでも天体でも関連付けされている四大元素(火地風水)があり、その四大は「熱い」か「冷たい」かに分けられるという話。天体にも熱い冷たいはあって、たとえば太陽は熱くて月は冷たい天体。

「熱い・冷たい」は「発信・受信」のような一対のもので、12サインだとこの「熱い冷たい」は熱冷熱冷熱冷……と交互に並ぶ。「奇数サインの人は発信しかしない」「偶数サインの人は受信しかしない」ではなく人間は誰しも両方やるのだけれど、好むスタイルが偏ることはままある。

ツイッターの使いかたひとつ取っても、「情報収集のため」と言ってもっぱら読むだけ・RTするだけで自分からは何もツイートしない人と、「自分がツイートしたい」のであまり他の人のツイートを読まない人がいるよね。

「主に発信用」でツイッターをする人は奇数的で

「主に受信用」の人は偶数的

「自分のツイートしたいこともあるし、面白いツイートを読んだりもしたい」場合は「自分から発信しているときは奇数的」「他人の発信を受けとっているときは偶数的」。まあ人間は耳と口、受信する機能と発信する機能の両方を持っているわけだからね、だいたいは交互にやってるし、使い分けている。

「この人/この件、前に見たときはこうだったよな」というのを記録したり記憶に留めたりしているのは冷たい元素(地や水)が得意な働き。熱い元素(火や風)が出したものは冷たい元素によって「前はこうだった」と判断され蓄積されていく。

自分が表に出したもので他人に判断され「前はこうだったやつ」という記憶されるなら、いっそ何も表に出さなければいいのでは?いやそれは「何も出さなかったやつ」として判断され記憶されるんだわ。安全なのか危険なのか、面白いのかつまらないのか、何もわからない存在として記憶されちゃうんだわ。

当番さんだってプロフィールに「情報収集アカウントです」とだけ書いてある鍵垢一方通行フォロワーのこと、何もわからんしな。向こうが10年当番のことをフォローしていて当番のツイート全部読んで薄い本全部買っていようとも、当番はその鍵垢さんの具体的な情報一切わからんもの。

そういう一方通行フォロー情報収集鍵垢さんのことを当番がどう判断しどう記憶するかというと「当番から情報は得たいが当番に自分の情報は一切与えたくない人なのだな。実際当番にはこの人がただの善良な読者なのか、それとも無断転載でもしようとしている邪悪な読者なのか、一切わからんな」と判断する。

【2021年12月14日の連投】
「自己表現(言いたいこと言いたいように言いたいタイミングで言って満足する)」と「コミュニケーション(相手と時間を共有し理解を共有する)」は分けましょうねーという話だと思うわ。「ハーイ」と「バブー」と「チャーン」だけで周りが意図を汲み取ってくれるのはご幼少のみぎりだけですわよ。

イクラちゃんでさえ「ハーイ」くらいは言うのに「ハーイ」も言わないのは論外。

隙星語(隙あらば西洋占星術の話をする)で言えば「自分を表現する」の方は「火の要素」であって、「他人とコミュニケーションをとる」の方は「風の要素」なんですわよ。両方とも「自分の中にあるものを外へ出す」んだけど、目的が違うんですわよ。

火の表現と風のコミュニケーションがどう違うかってぇと、コミュニケーションは繋げる混ぜる共有するなんだけど、表現は分ける切り離す際立つなの。

まあ最初のコミュニケーションマグロ、コミュニケーション要介護の話に戻ると「相手は『友達』や『交際相手』であって『おかあさん概念』ではないんだぜ。『お互い様』『かわりばんこ』ができないと『付き合う』は難しくて、『介護』になっちゃうんだぜ」に尽きます。

ダンマリだったりしても、相手の話を聞かずに一方的に喋り倒しだったりしても他に何か差し出せるお得があるのなら相手をしてもらえはするだろうけれど、「自分からは何も差し出さずに自分だけがラクに気持ちよく相手からサポートされたい」というのでは、あらゆるお付き合いがムリですわよ。

そりゃ、「友達」や「交際相手」や「家族」にさえも多少の気遣いはしますよ?でも「気遣いに気遣いで返してくれて関係性の天秤がそこそこ釣り合う人間」と「自分が気遣われるのは当然だが、自分は相手を気遣う必要はないと決め込んでいる人間」のどちらにより気遣いを振り向けていこうと思うかと言えば。

「何も差し出せなくても愛してくれて世話してもらえる」は「神様の愛」とか「福祉」とかの方面の話であって、個人同士の交際でやっていける範囲を越えちゃうんだわ。

火の「表現」も風の「コミュニケーション」も「外へ出す」だし、「表現」も「外へ出したもの」だからそれを通じて他人が自分のことをどういう人なのか知る手がかりにはなる。「外へ出して置いておけば都合のつくときに見てくれるかもしれない」やつは表現。ツイッタの自TLとかで存分に表現やるといいよ。

他人が「外へ出しているもの」「表現しているもの」→「他人の『火』」を自分が見るじゃん?「わかるわかる」と思ったり「いやわかんねえ……!」と思ったりする。わかったりわかんなかったり、言葉で書かれてるのを読んだりするから「コミュニケーション」と思うかもしれない。でもちょっと違う

たとえば当番がタイムラインに盛大に木を生やしていたとする。当番、特に誰宛とは定めずに自分の言いたいことをツリーにしている。後で誰かが当番のツリーを読んで「わかるわー」と思おうが、「わかんねー」と思おうが、当番は誰がいつ当番のツリーを読んでいるか全然知らん。コミュニケーション未満

読んだ人が当番に話しかけてきて、当番がそれに応じたらコミュニケーションは始まるけれど、黙って読んで黙って考えている人の存在は当番にはわからないよ。読んでる人は「当番の考えの一端」を知ることはできるけれど、まだ当番と「知り合う」には至っていない。当番がその人のことを知らないのだから。

「風」のコミュニケーションは「火」の表現よりはもっと相互的なもので、相互に相手を認識する、相互に自分を知らせる、相互に相手の言うことを踏まえて話すということができてやっとスタートラインに立つ。キャッチボールとはよく言ったもので、「相手を見て投げる、相手の投げたものを拾う」が大事。

「自分を表現する」と「他人とコミュニケーションを取る」は「料理をつくる」と「誰かに料理を食べさせる」くらい違いますわよ。料理好きな人は経験あると思う「勢い余って/作るのが楽しすぎて大量に作ってしまう」ってやつ、あれは「火」。大量に作ったからと他人に完食を強要したら嫌がらせ。

だけど、相手を限定せずに「食べたい人は食べたいだけどうぞ、なくなったらおしまいです」くらいの感覚で「出しておく」をすれば思いがけない相手に食べてもらえる可能性もゼロではない。

大量にできちゃう自己表現系(火のアウトプット)は不特定多数向けに「展示」しておいて、相手のあるコミュニケーション系(風のアウトプット)は相手ごとに様子を見ながら受け取りやすい分量を小出しに、交互に。火と風、両方のアウトプット(「外へ出す」)ができるのがSNSというものであってだな。

他人が表現しているもの、他人があなたへ向けたコミュニケーションで投げかけてきているものも、一旦「自分の中へ受け入れて(インプットして)」から返そうね。「中へ入れる」方は下の表だと「地」と「水」ね。

「自分を表現する」は悪いことではないのよ。「自分を見せない」よりは「自分を見せる」をやった方が「こんな人なのか」と他人に知ってもらいやすい。でも「相手を見ない」「相手の話を聞かない」「でも自分は『見て見て聞いて聞いて』する」では「コミュニケーション」にはならない。

そして「相手を見ている」「相手の話を聞いている」けれど、「自分を隠している」もまた「充分なコミュニケーション」とは言い難い。

【2022年3月22日の連投】
(占い師獅童ルビーさんがツイートした)「俺新聞みたいなLINEを送ってくる」で堪えきれずに笑ってしまった。うん、そういう俺新聞俺メルマガみたいなやつは誰か特定の人に送り付けないでTwitterの自分のタイムラインとかに流しておくもんだよということが、その「特定の人に送り付けちゃう人」には大体御理解いただけない。

当番さんもたいがい日刊俺新聞を放つ方の人間ではあるが(だからツイ廃なのだが)、そういうのは対個人でやってしまうと幼児のねえおかあさんねえおかあさんねえおかあさんねえと同じやつになってしまうのだよ。

生きた人間に向かって壁打ちをおしでないよ、ということである。

俺新聞的なものはねえ、ひとりのターゲットにプライベートで送っても、相手が迷惑だな重いなと思ったらもうそこで黙殺されておしまいなんだよ。そういう俺新聞は自分とこのホームに貼っといて毎日更新すんのよ。そうすると通る人がみんな見るのよ

そして通行人のうち奇特な人が「いつも通る道の、いつも変な俺新聞貼ってあるスポット。しかも毎日更新。何日のやつクソワロタ」って拡散してくれたりするのよ。変わった「今月の言葉」を貼ってある近所のお寺に自分がなるのよ。そこから友達とかお客様とかの縁が生まれるのよ

当番のホームTLは変なお寺か。

【2022年3月23日の連投】
ゆうべ獅堂ルビーさんの「俺新聞みたいなLINE」で散々笑い、「そういう俺新聞は自分の家(ホームTL)の外壁に貼っておけば面白標語を貼り出す近所のお寺くらいの注目スポットになれるんだよ」とツイートした。

寝て起きて「俺新聞」で検索したら「ホームで日刊/秒刊/瞬刊俺新聞の民」が多数いる🤣🤣🤣

当番さんの観測範囲内、「ホームが俺新聞の民(←他人に宅配しない)」が多数いて楽しい。当番ももちろん「ホームが俺新聞の民」ですわよ。

秒刊ホームで俺新聞、瞬刊ホームで俺新聞、脳直ホームで俺新聞の皆様、わかりますよくわかります当番もです。

当番は「『表現』と『コミュニケーション』は違う」と言っているのだけど、「自分の内側にあるものを外へ出したい、自分の気の済む形で自分の気が済むまで」は「表現」なのよ。で、「表現」は「コミュニケーション」とは違う。

「『自己表現(火)』をするな」ということではなく(そこ禁じると病んでしまうからね)、「『コミュニケーション(風)』のつもりで『自己表現(火)』を他人に放つな」だからね。ホームで焚き火をする、ホームに木を生やす、ホームに脳直俺新聞を貼り出すのはいいんだよ、ホームなんだから

他人は自分のホームではないから他人ちで焚き火をすな。見てもらいたいのはわかるが自分ちでやろう。自分ちでやってる様子を自分ちから公開するに留めよう。見たい人は見てくれる。

この「『コミュニケーション(風)』のつもりで他人に向かって『自己表現(火)』をぶっぱなすな」というのは逆パターンもあるよ。「他人の『自己表現(火)』を『この私とコミュニケーション(風)するためにやっているのだ』と誤認して『お客様気分』で口を挟むな」もある。

「『他人の自己表現(火)』を『この私とコミュニケーション(風)を取るためにやっているのだ』と誤認して『お客様気分』で口を挟む」というのは、たとえば「『他人が他人自身のためにしている/しないでいる化粧やネイルや作品』に対して『自分は口出しする権利がある』と思い込んで口を挟む」とかよ

あるでしょそういうの。ネイルする民はする民で「貴方のために塗ってるんじゃないんですけど」という相手から「そんなネイルは〇〇受けしない(本音は『自分はそのネイルが気に食わない』だが、自分主語を避けてそういう言い方をする)」とかさ。ネイルしないならしないでまた別の人に言われたりさ。

「自己表現(火)」と「コミュニケーション(風)」は違う。そこ分ける。「自己表現(火)」は特定個人にぶち当てずに自分の領域で燃やす限りにおいては他人に止めだてされる謂れはない。

【2023年2月10日の連投】
元井さんの「リプライやRTばかりするのではなく、単独ツイートをして自分を知ってもらえ」シリーズは当番的な言い回しを使えば「『火のツイート』と『風のツイート』のバランスを取ろうね」になる。

火のツイート→特定の人に話しかけずに不特定の他人に自分を示す「自己表現系ツイート」

「火のツイート」が自己表現(火は明るいでしょ。自分が光を出して「ここにいる」と示すのが火のツイート)だとすれば、「風のツイート」は特定の誰かと相互交流を目的として意見や情報を交換するツイートのこと。他人が相手になってくれないとなかなか成立しないものでもある。

特定の誰かと「風のツイート」を成立させるにはある程度の親しさ、あるいは最低限、「この人は悪い人ではないし、話し甲斐がある相手だな」と思ってもらえる程度の下地が必要なのね。その下地になるのが「事前にある程度離れた距離からでも『この人はどんな人』を把握できるような普段の言動」なのよ

真っ暗な中にお店が立っていたら、通行人にはどんなお店か全然わからない。お店に看板が掛かっていて「どうぞお入りください、うちはおいしいラーメン屋です」と書いてあっても、真っ暗闇の中にあるその看板を照らす明かりがなかったら、通行人には看板が読めない。だから「火のツイート」が必要なの

ラーメン屋さんの公式アカウントが他のアカウントのRTと@ツイートばかりしていたら「そのラーメン屋さんがどんなお店か」は結局よくわからない。ラーメン屋さんがラーメン屋さん自身のことについて「お客さん候補へ@ツイートで個別に」ではなく「広い範囲へ自店を示すツイート」をしていく必要があるでしょって話。

自分が自分の公式広報アカウントになってみようよ、みんなもっと「火のツイート」しよ。自分をライトアップしよ。そのライトアップしたところに他の人は目を向けるんだからね。

(火つよつよホロスコープ持ち、星見当番からのメッセージでした)

明かりをつけましょボンファイアー
お花をあげましょサンフラワー
五人囃子がイイねする
今日も楽しい自己開示

火の概念は「遠ければ光、近ければ熱」。そこに(ここに)何かが「ある」と知らせるもの。ライトアップしましょ、ウォームアップしましょ。あなたが(わたしが)ここに「いるのだ」ということを自領から(ここ大事。他領で火を焚いたら放火だよ)発信するために火のツイート、自己発信をしましょ。

あなたの(わたしの)存在を熱と光でお知らせ。それが「火のツイート」。火は「遠ければ光、近ければ熱」。他人の庭で焚火をしたり、他人の目の前で発光物を振り回したりしたら他人の領域や他人の目を傷つける。焚火や光る棒は自領で焚いて、その熱や光との心地いい距離感は他人に決めてもらうんだよ

暖かそうな火を焚きましょ(自領で)。近くで見たくなるようなライトアップをしましょ(自領で)。松明や光る棒を振りかざして他人を追い回してはいけないよ。向こうが近づいてくるような魅力的な焚火、魅力的な発光体に自分がなって、その場で惜しみなく自分の美点を示すのよ。みんな太陽におなり。

当番さんこう見えて(アセンダント獅子座、ネイタルチャートのルーラー太陽の民です。まあ太陽4室に沈んでるけどなー。沈んでいようがなんだろうが太陽は太陽なんですよ)。

ライトアップだ!!!!

フォロワーの!
よく光るとこ!!
見てみたい!!!
ワッショイ!
ワッショイ!
ワッショイ!
ワッショイ!

🔥🔥🔥🔥

【2023年追記・おもに元井さんのこと】
文中にちょいちょい登場する「元イさん・元井さん」は当番と相互フォローのTwitter(X)ユーザーにしてnoteユーザーです。元井さんのnoteはこちら。

元井さんのツイートやnoteのおもなテーマは「コミュニケーションと人間関係の構築」。非モテ問題からスタートして、現在は広く「孤立の防止」「つながりを増やす」ことをテーマにオフラインイベントを精力的に開いていらっしゃいます。

ホロスコープに射手座要素(つまりは火の要素)が溢れている当番から見ると元井さんの展開している活動や発言は「風の要素たっぷり」に見えます。元井さんご自身、ホロスコープ的に風要素たっぷりなので当番は元井さんを見てると「風々しいなあ」とニコニコしてしまうのです(星の民あるある、特定の要素が強い人がその要素っぽさを全開にしているのを見るとニコニコしてしまう)。

「コミュニケーションわからん」「人間関係わからん」そして「風の要素が元々自分に乏しくて『風』がわからん」という人は元井さんをフォローしてみるといいですよ。

元井さん、もともとはコミュニケーションがうまく取れなかったと仰っていて、それを自覚してコミュニケーションの取りかたをイチから始めて現在に至るという「リスタート風の民」です。それゆえに「元々風要素に乏しいがゆえに風の概念が何もわからん民」にもわかりやすい書きかたでとてもありがたいです。これは「『最初から算数や英語が得意だった人』よりも『算数や英語が最初できなくて、後からそれを克服した人』の方が算数英語わからない民のわからん勘所を掴んだ教えかたをする」みたいなものです。なお、当番がこの「風の要素が元から乏しい民」のひとりです。

当番は元井さんの対岸側(つまりは射手座側ですね)からその風っぽさを見てニコニコしているわけですが、なにしろ火が強い民なので「火つよつよの俺新聞は俺新聞で、使いどころさえ間違えなければライトアップになるんだよ」という気持ちを抑えきれずにこの連投を綴りました。

火は相手の庭で焚いたり相手に突きつけたりしちゃダメなのよ。でも適切な場所で毎日焚く火は自分が何者かを示すライトアップになるのよ。使い分けようね。

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