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私にその資格は

「折星さん、ちょっといい?」

上司に別の部屋に呼ばれると、いつもどきりとする。この間こっそりしてしまった残業が、パソコンのログでばれたのか。それとも、隣の部署に頼まれたあの仕事に、クレームでもついたかな。何を言われるのだろうか、と思いながら足を踏み入れる小さな会議室は、心なしかひんやりとする。

「あのさ、もう昇格試験受けられるんだけど、どうする?」

ひとまず、ミスではなかったことにほっとする。

「……昇格試験」

「うん、受けるよね?」

どうやら「受けない」の選択肢はなさそうだ。

「……はい」

「じゃあ自己紹介書メールしとくから、書いたらいったん見せて」

「わかりました」

流されるままに返事をしてしまうのは、いつまでも直らない私の悪い癖だ。


デスクに戻ると、すぐにExcelファイルが添付されたメールが送られてきた。提出は来月だけれど、ボリュームは見ておかなくては。カチリ、とフォルダを開く。


現在行っている自己啓発

最近行った業務上の改善事項

次のポジションとしての抱負


並んだ問いに立ちすくむ。私にはそんな前向きな気持ちが、ない。

それぞれのセルは数行しかなく、枠いっぱいに書いてもそれぞれ300字にも満たない。毎晩1000字を超えるテキストをここでは叩くのに、目が眩むほどに真っ白なその枠は、何だかとてつもなく大きかった。

私にこれが、書けるだろうか。私はこの試験を、受けていいのかな。

右上の赤い閉ボタンを押して、Excelを終了する。お手洗いに立って、パウダースペースでスマホを開く。

待ち受け画面で光るのは、大切なメールのスクリーンショット。何度も読み返して文章を覚えてしまったのに、三年前に就職活動を終えたあの日から、私は待ち受け画面を変えられていない。

折星さん

連絡、ありがとう。そして、よく頑張ったね!
結果については僕もすごく残念ですが、「うちの会社がいい」という言葉に涙が出ます。ありがとう。

就職も「縁」です。
折星さんからフってやったんです。折星さんが入る会社と、出会ったんです。
なので、しっかりがんばってください。

こんど、ぜひ、またみんなで飲みましょう!
毎日蒸し暑いので、体に気を付けて。

メールの送り主は、第一志望だった会社にいた憧れの人だ。内定通知が届かなかったあの日、悔しさをかみ殺して「悔いはありません」と送ったメールにもらった返信。不採用、と決まっても涙は出なかったのに、このメールをもらってからボロボロ泣いた。

その人と一緒に働きたかった。本当は悔しくて悔しくて仕方なかった。けれど、「私が選んだ」と言ってくれるこのメールで、私は救われた。自分で選んだんだから。自分で出会ったんだから、頑張ってみせる。そう思って、ここまで進んできたけれど。

今まで私が見ていたのは、やっぱりあの憧れの会社だった。頑張ってこれたのは、いつか必ずリベンジしたいと思っていたからだった。

でも、そろそろ限界が来る。このまま進んでいくのなら、きちんと目を開けて、別の山頂を目指さなければならないことに、私は本当は気づいている。

悔しくてたまらない。さっと切り替えられない自分が情けない。それでも、あの人の「がんばってください」に、私は応えたい。

だから、目指す山頂がかすむとき、行き先が分からなくなったとき、もう少しだけすがらせて欲しい。折り合いは必ず、自分でつけてみせるから。

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