見出し画像

恵方巻きもいいけどいなりもね! 2/12は「初午いなり」

節分が近づくと恵方巻きが食べたくなります。「節分=恵方巻き」は一大ブームとしてすっかり定着し、寿司屋はもとより、スーパーもコンビニもそれ一色だから。ところがその発祥は意外と下世話で・・・wという話は以前まとめましたが、わが家もブームにのっかって節分には必ず具だくさんの太巻きを作っております。

恵方巻きをおいしく頬張った後には、もうひとつお寿司を食べなきゃいけないんですよ、日本人としては。それが、いなり寿司。

あなたもきっと2月にいなり寿司が食べたくなる、そんなお話です。


初午いなり発祥の地は、京都・伏見稲荷大社

話は、日本の暦が西洋化される前、干支を基準に年・月・日・時が定められていた時代に遡ります。現代でも、子丑寅卯辰巳・・・の十二支は残っていて、「年男」とか「年女」とか、ありますよね。昔はそういった年干支だけでなく「月干支」「日干支」もあったんです。「たった12種類で!?」と思っちゃいますが、干支ってじつは十支と十二支があって、組み合わせ方で60通りもあるんですって! 

で、「初午(はつうま)の日」とは何かというと。「日干支」で考えたときに、2月の最初の午の日を「初午」と言い(牛に似てるから「はつうし」って読みそうになるけど、「うま」だよw)、全国の稲荷神社で五穀豊穣を祈願する「初午祭」が行われるんです。

ではなぜ、初午の日がそんなに重要なんでしょうか。それは、世界中の人を魅了して止まない京都の美しすぎる名所・伏見稲荷大社と関係があります。

小さかった息子を連れて初めて訪れた伏見稲荷。今ほど混んでなかったなぁ。

思わず衣を正さずにはいれらない、霊験あらたかな伏見稲荷は、全国に3万社ある稲荷神社の総本山。伏見稲荷が建立された稲荷山に大神が降臨されたとされる日が、当時の「初午の日」だったんです。

3万社の頂点に立つ貫禄。

伏見稲荷の神様は、当時の日本人にとって生活の拠り所、心の糧だった「農耕」を司り、お稲荷さんと呼ばれて親しまれていました。その大切な神様の降臨日ですから、稲荷神社にとって初午ほど重要な日はない!といえるかもしれません。

なぜ、「いなり寿司」なのか?

では、その「初午の日」にいなり寿司を食べる風習はどこから来たのでしょうか。勘のいい方はお気づきかもしれません。

稲荷神社といえば、キツネ。境内には必ずキツネが鎮座していますよね。五穀(稲作)を司る稲荷神へのお供えとして、キツネの大好物とされた油揚げに、収穫した米で作った寿司飯を詰めた。これが、「初午いなり」の由来だとされています。
※いなり寿司自体の発祥には諸説あり、尾張名古屋説が有力ですが、「いや、うちが発祥です」という、よくある「発祥の地合戦」も繰り広げられているとかいないとか^^

ちなみに、「お稲荷さん=キツネさん」ではありませんよ。キツネは「神の化身」ではなく「稲荷神の使者」と考えられ、大切に扱われていたのだそうです。

2月になったら、日々のおいしいお米に感謝しながら稲荷神社に詣で、いなり寿司をおいしくいただく。これ、新習慣にしたらどうかなぁと私は思っているのです。

そんなこんなで、いなり寿司が食べたくなってきましたねぇ(笑)。続いて、いなり寿司そのものの話をしたいと思います。

創業147年の老舗で、3日かけて作られる名物「志乃多」

今回やってきたのは、1877年に屋台として創業し、その後、この地に店を構えた人形町志乃多寿司總本店。甘酒横丁の中ほどにあります。

持ち帰り専門のこじんまりとしたお店ですが、
グルメなご年配のお客さんで賑わっていました。

いなり寿司は、創業当時から変わらない美味しさで愛され続けている看板商品。こちらのお店では「いなり」ではなく「志乃多」と呼ばれています。

近畿あたりの方はご存知かと思いますが、いなり寿司を「信太(しのだ)寿司」と呼ぶ地域もあるんですよね。由来は、現在の大阪・和泉市にある「信太の森」の伝説の中で語られる、ちょっと切ないキツネの物語。キツネといえば油揚げですから、この伝説に結びつけて「信太寿司」と呼ぶようになったという説があります。

*「信太の森の伝説」については和泉市立北池田小学校の説明をご覧ください^^

大阪に伝わる伝説が、なにゆえ江戸の中心地・人形町のお寿司屋さんで用いられたのか。じつは、信太の森の伝説を元にした、有名な歌舞伎の演目「葛の葉子別れ」というのがあるのです。

志乃多寿司總本店では、江戸時代から庶民に親しまれていたいなり寿司に創意工夫をこらして「究極の一品」を作り上げ、葛の葉子別れに登場する古歌にちなんで「志乃多」と名付けて売り出したのだといいます。

うーん、まさに伝統の味、粋な味、です。

お待たせしました。こちらが志乃多です。

とにかくお揚げがジューシーで美味! 
砂糖は白ザラメ、赤ザラメ、沖縄産黒糖の3種を使った「三位一体」を意識し、
醤油、みりんも加えて、じっくりと煮ているそう。

「うちは甘辛く濃い味つけなので、味がほどよく浸みるように特別に薄いお揚げを使っています」と五代目当主の吉益敬容さん。油抜きをした揚げを醤油と砂糖、みりんで煮て、冷蔵庫で3~4日寝かせ、さらにもう一度味を含ませる。もうひとつの人気商品であるかんぴょう巻きも、かんぴょうに味をつけた後に数日置いてから使っている。「寝かせることで調味料が素材と馴染み、味が丸くなるんです」

「まち日本橋」https://www.nihonbashi-tokyo.jp/enjoy/gem/201503/
優しい味付けなんだけどしっかり甘くてキレがあって。
もっとたくさん買ってくればよかったな、と思いました。
干瓢巻、かっぱ巻、沢庵巻の折り詰めも購入。
自家製干瓢がこれまたとっても美味しいです!

ちなみに、神田にも「神田志乃多寿司」があります。こちらは人形町の総本店から暖簾分けされたお店。この神田志乃多寿司から、さらに浅草志乃多寿司、四谷志乃多寿司などに暖簾分けされたのだとか。各店で独自のこだわりを取り入れておられるので味にも違いはありますが、甘じょっぱい江戸前のいなり寿司がこうして継承されているのはありがたいことです。

俵型?三角型? ご飯は白?それとも五目?

子ども時代の私(山口県出身)にとって「いなり寿司=三角」でした。東京に住んでいる今は「いなり寿司=俵型」が普通です。

そう、東では俵型、西では三角が主流なんですよね。前者は米俵、後者はキツネの耳に由来しているそうですよ!

油揚げで包む寿司飯も地域によっていろんなバリエーションがあるそうです。山口の実家では、必ず五目寿司でした。どうやら西エリアはそういう地域が多いよう。現代の関東は白い寿司飯が主流で、白ごまが混ざっていたりもしますね。とはいえ、江戸後期の風俗研究における貴重な資料として知られる「守貞漫稿」には次のような記載もあり、元々はキクラゲや干瓢が具として入っていたようです。

《守貞漫稿》によると,発祥地は尾張の名古屋で,江戸では天保(1830-44)の末ごろから,鳥居の絵をかいた行灯に灯を入れた稲荷ずし売りが夜の町々を売り歩いたという。当時は酢飯にキクラゲかんぴょうを具としてまぜていたが,いまではシイタケニンジン,さやエンドウ,れんこんなどを加えることが多い。

コトバンク 
ご近所のライフで買ったおいなりさん。左のはちょっとした贈答品にもなりそうなパッケージに入っていて、お出汁の効いた味しみしみのお揚げが最高です。ちょっともっちりしたお赤飯が包まれていて、これもなかなか美味。右の「普通のやつ」もけっこういけます^^

ちなみに、いなり寿司の原形は棒状だったといわれています。棒状に作って、屋台で切り売りをしていたんじゃないかと。この原形に近い形のいなり寿司を今も販売しているのは、神奈川県横浜市にある泉平(いずへい)。創業は1839(天保10)年といいますから、気になるところです。


初午の日に向けて、自分好みのおいなりさん、探してみませんか?






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?