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朝食のピザトースト|連載「記憶を食む」第2回|僕のマリ

思い出すことのかたわらにはいつも、食べものがあった。
大切な記憶も、ちょっとした記憶も、食むように紡いでいく。気鋭の文筆家・僕のマリによるはじめての食エッセイ連載。
第2回は、身だしなみが気になる高校時代の著者の朝食の思い出と、自身の性格への思いが交差します。

 今年三十二歳になる。三十二歳というのは、もうなんていうか、言い逃れできないほど立派な大人である。それでいて、日本人の平均寿命で考えれば、まだ折り返し地点にも立っていないのだから恐ろしい。あと四年もすれば、母がわたしを産んだ年になる。そう考えるとまた、気が遠くなる。自分の人生、好きに生きたいと思う。でも、それとは別に「大人として」しっかりしたいとも思う。そのふたつを両立させるのは不可能ではない。わたしが今まで読んだ本や、好きな映画や漫画が様々な道を示してくれる。二十代まではなんとなく苦しいと思うことも多かったが、色んな経験が糧となり、いまの自分を作ってきた。

 小学校に入学するとき、母がわたしの得意なことや苦手なことを記入する調書のようなものを書いていた。いないときにこっそり読んでみると、「短所:頑固」と書いてあった。長所はなんだったか思い出せない。活発とかマイペースとか、そういうところだったかもしれない。でも、頑固という短所だけはものすごくはっきりと覚えていて、折に触れて思い出す。子どもの頃はそれについて深く考えることもなかったが、大人になってからボディーブローのようにじわじわ効いてきた。内省的になり、自分の言動が走馬灯のように蘇るたび、「頑固」という単語がテロップのようにでかでかと出てくる。わたしは、頑固だ。ひとり暮らしを始めるとき、親に買ってもらう家電の色を譲れなかったこと。会社で働いていたとき、嫌がらせをしてきた人を許さなかったこと。結婚してからも、夫と喧嘩するたびへそを曲げること。全部全部、頑固だから。

 そもそもわたしには、「自分が折れる」「譲る」という発想が、あんまりなかったのだと思う。大人になって多少は協調性も芽生えたとはいえ、人に合わせるということに強い苦痛を伴う。心療内科で特性についての説明を受けたときに「こだわりが強い」と言われたが、それがもとの性格と合わさって頑固に拍車がかかっている気がする。


 結婚する少し前から自炊が習慣になり、もともと食べることが好きなので楽しく続けている。しかし、頑張って作るのは夕飯だけで、朝食はごはんと味噌汁か、パンを焼くくらいの簡単なものしか用意しない。朝からそんな元気は出ないし、わたしも夫も、朝からたくさんは食べられない。たまに、朝から元気で、冷蔵庫に材料があればピザトーストを作る。野菜とベーコンとチーズを乗せるだけで、ちょっとしたごちそうになる。欲張りだから、ついこぼれるほど具をのせてしまう。焼き具合を入念にチェックして、タイミングを合わせてコーヒーを淹れたら完璧だ。チーズの焼けるいい匂いが食欲をくすぐる。でも、ピザトーストを作るときに思い出すのは、母にしてしまったことだ。

 物心ついたときから母は、色んな食事を作ってくれた。朝は忙しいのに、フレンチトーストや具だくさんのサンドイッチ、小さなハンバーガーも用意して飽きないようにしてくれた。おしゃれに敏感な人だからか、食事も少し凝ったものを作ってくれた。ひたすら口に運んで育ってきたけれど、ありがたかったなと思う。

 高校生の頃、髪の毛を染めたりメイクを始めたり、楽しい時期を過ごしていた。マジョリカマジョルカの新作のアイシャドウや、市販のカラー剤で染めたミルクティー色の髪、ボディショップのジャスミンの香りのボディクリーム。身だしなみに気をつかって、早起きしてシャワーを浴びてから登校することも多々あった。香水こそつけたりはしていなかったが、「いつもいい匂いだね」とクラスメイトに言われるのがうれしかった。

 そんなある日、朝食がピザトーストだった。ピザトーストは美味しい、好きだ。昔からの我が家の定番でもある。でも、生のタマネギがトッピングされている。トーストするとはいえ、生の風味はあまり変わらない。せっかくシャワーも浴びていい匂いなのに、口がくさくなるなんて嫌だった。朝の支度で慌てていたわたしは、「タマネギはくさくなるから、わたしは食べない」と言ってしまった。その頃はもう兄たちも実家を出ていて、父も毎朝早くに仕事へ行くので、いつもわたしと母のふたりの食卓だった。母は料理が上手で、母が作るものはなんでも美味しい。でも、タマネギは口がくさくなるから食べたくない。それだけのことだったけれど、「出された食事を食べない」という冷たい仕打ちをしてしまった。そのとき母は、怒るでも説得するでもなく、「そう」とだけ言った。どんな顔をしていたかはわからない。そしてそれきり朝食にピザトーストが出てくることはなかった。
 タマネギを抜いて食べればよかったのに、それをしなかった。生来の頑固さが顔を出して、極端な行動でしか気持ちや希望を伝えられなかった。人を傷つけたはずが、自分も傷ついた。そういうことが人生で何度もあった。
 高校に入学してすぐの頃、なんとなく家計簿を見ていたら、ピアスを空けた日のメモ欄に「まり ピアスを空ける」という言葉とともに、怒った表情の顔が描かれていた。末っ子だった自分が大人びていく様子が、母は寂しかったのだと思う。兄たちも十八歳で家を出て遠くで暮らしていたから、余計にそう感じていたのだろう。でもわたしにとっては、ただただ縛られているようでうっとうしく、過保護な親、と白けた気持ちになった。わたしは幼い頃からいつも、子ども扱いされることに怒っていた。ずっと怒っていた。その怒りが長い時間をかけて醸成して膨らみ、反抗期に爆発したのだと思う。でも、早く自立したい、大人になりたいという気持ちとは裏腹に、出された食事に文句をつけることは甘えている印だった。そのことに気づくまで、ずいぶんと時間がかかってしまった。
 
 親だから、家族だから、素直になれずに謝れなかったことがたくさんある。ただでさえ頑固なわたしだから、どうやって相手に歩み寄ればいいか、方法がわからなかった。幼い頃は大泣きして、思春期になったらなあなあにして、消化できないままここまできてしまった。三十歳を過ぎて、だんだん老いていく母と接するようになってやっと、思いやることができてきた気がする。お互いの角がとれて丸くなって、柔らかくなった。近くにいると、「してくれなかったこと」ばかりが目について、優しくできないことも多々あった。同性ゆえの衝突もあった。でもいまは少しずつ、お互いを尊重する気持ちが出てきた気がする。


 前の職場で働いていた時、男性客がジロジロと見てくるのがつらかった。しかし、それは同じ店で働いている同僚にしか理解されない話でもあったので、「それのどこが嫌なの?」「それくらいいいじゃん」といなされることも多かった。わたしだって、「見られる」ということがこんなにしんどいと思わなかった。一生懸命働いているときに、何度顔を上げても目が合う人がいるのは気持ち悪くないですか。食い入るように見てきて、にらみ返してもジロジロ見てくるのは失礼なんじゃないですか。理不尽なクレームや迷惑行為よりも、よほどつらい状況だった。ある日、常連客でわたしのことを特に見てくる男性に、我慢できずブチ切れたことがある。「ジロジロ見て失礼です。もう来ないでください!」と叫び、和やかなモーニングの時間帯が一瞬で地獄のような雰囲気になった。出禁がつらいのか、わたしが怖かったのか、その客は涙を流しながら帰っていった。わたしのあまりの剣幕に、一緒に働いていた同僚は気まずさをかき消すように綺麗なテーブルを何度も拭いていた。

 実家に帰った時にふと、母にこの客のエピソードを話したことがある。わたしは家族の前ではやや口数が少なく、なんでも話すタイプではない。なぜそのとき話そうと思ったかはわからないが、疲れ切っていて、話さずにはいられなかったような気もする。話し始めてから(あ、この話をして逆に怒られたらどうしよう)と思った。昭和世代の母に、お客さんの愚痴を言う自分はどう映るのか急に不安になったのだ。「気強いな」とか「あんたは怒ったら折れへんからな」と呆れられるかもしれない。それでも一か八か、「毎日来る八十歳くらいのお爺さんが、来るたびにわたしの顔ジロジロ見てくるんよね。遠くの席に通しても、振り返ってまで見てくる」と続けた。横目で母の表情を盗み見る。母は、ため息交じりの「えー」という声を出したあと、「なんやねん、きしょい奴」と言って笑った。

僕のマリ
1992年福岡県生まれ。著書に『常識のない喫茶店』『書きたい生活』(ともに柏書房)『いかれた慕情』(百万年書房)など。自費出版の日記集も作っている。

次回は2月9日頃の更新です。
以後、隔週金曜日に更新予定です。

過去記事は以下のマガジンにまとめています。


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