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成績と受験のための中学校の教え~すばらしい授業をする先生、もったいない!~

ある日曜日の夜、次女が突然ヌ~ッと顔を出して言った。「あのさ、何かもう、テストとか成績のために勉強するのが、どうでもよくなってきちゃった。わたし、自分のために勉強したい。」

私はそれを聞いて言った。「おお、良いんじゃない。勉強は自分のためにするべきだと思うよ。」そのあと次女はお風呂に行った。私は、なかなか私の娘も素晴らしいことを言うな、と思ったのと同時に、何か最近そう思うきっかけがあったのかな、と気になってきた。

しばらくしてお風呂から出てきた娘に聞いてみた。「さっきの勉強の話だけどさ、どういうところで、そう思ったの?」次女の説明だと、こういう事だった。定期試験とは別に、各教科小テストが度々あって、それもすべて評価の対象になるのは良いのだが、その時にこのテストは成績のどの観点になるとか、先生がいちいち説明をしてくる。さらに定期テスト前にはどの教科も、今回のテスト範囲のこの部分はどの観点になるとか、このタイプの問題はどの観点になるとか、1時間使って説明をするという。「そういう時間に1時間も使うのがもったいないと思う。あと、何がどの観点の評価になるとか、そういうのを気にするのが嫌になってきちゃう。」と次女は言った。

なるほどと納得した。成績表ではいくつかの観点ごとの評価があり、それらを総合して5段階の成績が決まっている。その観点ごとの評価の点数を稼ぐために、先生が分かりやすく説明をしているらしい。おそらく需要があるために、そういう流れになってきたのだと思うが、何だかなぁー・・・、と思った。すべて成績、その先にある受験、さらにその先にある就職、に繋がっている古い学歴信仰というか、学校も多くの親も、最近の外の世界の変化に付いて行ってない。でも世の中全体では、気が付いている教育者、親、子供も確実に増えているとは思うし、選択肢も増えているとは思う。

その話の数日前に、私は次女の授業参観に行ってきたばかりだった。次女から面白いと聞いていた数学の先生の授業だったので楽しみに行き、実際授業を観て、”ああ、こんな感じで新しい事を教わるのは楽しかったなあ”と、自分の学生の頃の感覚を思い出していた。娘が小学生の時の授業参観でも、”この先生の教え方、話し方、素晴らしいなあ”と思う教師もいたし、純粋に学ぶことは楽しいのだ。その楽しさがあるから、自発的に学びたい欲求が出てくるのに、成績のための観点だの気にしていたら、承認欲求の方が育てられてしまう。承認欲求よりも自発性の方が、とても大きな力を持っているのに。

教えることに関して素晴らしい先生が沢山いるのに、娘の中学校の話を聞く限り、教師自ら学ぶことの価値を下げてしまっている、もったいない!と思ったが、それと同時に教師を責めても仕方がないと思った。学校教育自体の方向性や保護者の需要に応じ、さらに教えること以外に学校内で使うエネルギーが多いと、先生達も麻痺してくるのかもしれない。しかし、それに気付いている生徒もいるのだ。

次女は塾に全く行っていないので、学校の授業で集中することにエネルギーを使っているという。数学など最近は、ユーチューブの授業やってみた動画で予習復習をしたりと、自分で理解するための工夫もしているらしい。一生涯、学ぶことは必要だと思うし、それも学ぶ楽しさを感じなければ続けていけない。中学生ではその楽しさを感じたり、自分なりの勉強方法を探して欲しいと思う。また、アニメでも何でも、自分が好きな世界も存分に楽しんで欲しいと思う。

あなたが感じているその感覚はとても正常だと私は思う、と次女に伝えた。





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