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誰かの為に考えてることは、本当に誰かの為なのか

仕事でもプライベートでも、様々な場面において、「誰かの為に」ということをモチベーションに置く人は多いです。時に人と接する場面においては、この言葉をよく使います。しかしながら私は、この「誰かの為に」という考え自体に異論はないのですが、普段の中でこのような言葉がよく出てくる時には、ものすごく違和感を感じてしまいます。もちろん誰かの為という考え方自体は嫌いではないですし、私自身も本当にそうだなと思う自分がいるんですけど、それと同じくらい、


本当に誰かの為にって考えているんだろうかと思ってしまいます。



よく有難迷惑という言葉があります。やってくれている行為自体には感謝の気持は持っているのだけど、ここまでやってほしくないということって、本当に良くあります。私自身も私自身の失敗としてやってしまったことがありますし、逆に有難迷惑をされた経験もあります。有難迷惑をされた時に、口には出さないだろうけど、頭の中に思い描けている言葉として、


これは本当に誰かの為を考えての行為なのかということです。



もちろん口では誰かの為という言葉が端々に出てきます。しかしながらその考え方や行為自体を、その人に確認したのかというとそんなことはなくて、その行為のほとんどが確認を取っているわけではなく、自分自身が良かれと思ってやっている行為にしか過ぎません。結果的にはお互いが誰かの為と言うことを主張しているのですから、


両方が嘘を言っているわけではなく、真実を述べていることっとなります。



実はこの真実というのが厄介なわけで、実は自分が訴えているこの真実というのは、実際のところは「誰かの為」という言葉を借りているだけの、結局は「自分の為」に行動をしているに過ぎません。だからその行為が上手くいかなかった時にどう思うのかと言うと、


自分は相手を思ってやっているのに、なぜ理解されないんだという風になるわけです。



基本的に自分の頭の中で「誰かの為に」という動機で考えた様々なものというのは、結局は自分の為に考えていることのほうが多いんです。それをきちんと理解してる人間というのは、自分のエゴが出すぎないようにコントロール出来るのですが、だいたいの人がこの事実に気付いてない人が多いので、


自分の考え方を勝手に押し付けてるだけになってしまってるわけです。


人というのは、ほとんどの人が自分の考え方を基準にして物事を考えます。それは紛れもなく自分の考え方で、誰かということを装ってるだけです。それが理解できなければ、人のことなんて考えられるわけがなく、人というのは、


基本はわがままである


ということを理解しながら、ベターな方法を考えていかなければいけないなと思ってます。

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