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自分かもしれないという気持ちを持っていたほうがいです

私の勤める介護業界というのは、事故というのは切っても切れない関係性になります。もちろん事故なんて起こしたくてお越しているわけではなくて、人が人を見ている。ましては様々な病気を抱えている人を見ているので、不可抗力で起こってしまう事故もあります。もちろんすべてがすべて不可抗力なわけではなく、人的なミスにより起こる事故も当然にあるのですが、そのような事故を極力減らすために、


私達は対応策を考えるわけです。



その対応策というのは、もちろん次に同じことを起こさないように立てます。ですがこの対応策というのは、だいたいが事故を起こしてしまった対象者が素案を考えていくわけですが、この対象者が起こしてしまった事故に対してどれだけ真摯に向き合うかどうかで、この対策というのは大きく変わってしまうわけです。
長年マネジメントをしていっていますが、この事故検証というのは、本当に人によって違います。もちろん「起こしてしまったことに対して責任を取れ」ということまでは言いませんが、事故というのは大小問わずに誰かに影響を及ぼしてしまっているわけですから、きちんと起こしたことに対して向き合ってほしいとは思っています。しかしながら、前からお話していますが、ある程度経験があって自信満々な人に多いのですが、


起こってしまったことに対して、自分が関係するということを認めない人がいます。


私達の仕事は身体が不自由な人が多いです。なので自然発生的に起こるということは考えにくく、外的要因によって起こってしまうことがほとんどです。その外的要因というのが、


紛れもなく、私達職員なわけです。



それに対して認めようとしなければ、原因を検証することが出来ず、原因不明とするしかなく、その結果何度も同じことが起こってしまうというのは、介護業界ではあるあるになってしまっています。
自動車免許を取るときに、教習で「かもしれない運転」をしなさいと言うことを習ったことがあると思います。これは運転に限らず、仕事の分野に対しても大切なことです。


「もしかしたら自分がやったかもしれない」



という風に考えれば、自分がケアを行う時にしっかりと意識をすることになります。実はこの意識するというのは本当に大切で、意識すれば人は慎重に物事を進めるので、不用意な事故なんて起こりません。しかし、「自分ではない」と考える人というのは、そもそも自分がどのようにケアをしているのか分かっておらずに、悪い言い方をするならば、


対象をモノ扱いしているのと一緒です。


私達、介護の仕事につく人間というのは、「人の命」を守る大切な仕事です。その大切な命を守らなければいけない人間が、自分がどのように行っているのかを説明も出来ないというのは、そもそも自分は仕事ができないと露呈しているのと同じです。いつもどんなときでも、「自分がやったのかもしれない」という風に考えて、自分の行っていることをしっかりと説明できる人間が、


プロの仕事なんだと思っていたほうが良いと思います。


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