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【エッセイ】捜神記私抄 その七

屋根の上の仙人
 ちょっとマンネリ気味かもしれないけれど、またしても仙人の話である。そもそも説話集とは似たような話(類話)の寄せ集めであるし、仙人・方士話はこれで打ち止めにするので、お付き合い下さい。

福建省に徐登という人がいた。もとは女であったのが男に変わったという人物で、浙江省の趙昞ちょうへいとともに、方術の達人であった。
巻2の34『術くらべ』

 女が男に変わるというのは自然な性転換なのか、それとも生まれた時に女児だと誤って判断されたのが、思春期になると男性器が発達したものか、あるいは今でいうところの性同一性障害なのか判然としない。

 実は巻6では「ものの変化へんげと吉兆・凶兆」が論じられていて、ある本によると、女が男に変わるのは身分の低いものが王となる前兆であり、男が女に変わるのは滅亡の前兆であるとか、一説によると、前者の場合は女による政治が行われ、後者の場合には宮刑がむやみに行われるとある。宮刑とは注によれば、男は去勢、女は幽閉で、元は男女の不義を罰する刑であったとのこと。(常人に異常と感じられるような個人レベルの事態が、兆しという形式で国家レベルの波乱と結びつけられている。そのような思考のあり方は、誤った因果関係の推測ともまたちがっており、なかなかに興味深い。)

 しかし、徐登については何にも述べられていない。頼むよ、干宝さん(作者)という感じ。

 それはさておき、あるとき戦乱が起こり、難を避けた徐登と趙昞の二人が谷川で出会い、互いに術を自慢し合ったというのだから、まあマウントの取り合いというものだろう。同世代・同性の二人が出会うと先ずこういう事態は避けられない。学歴、キャリアの自慢、知識のひけらかしなどである。方士ならば、当然のように方術のひけらかし合いとなって、先ず徐登が何やら呪文をとなえてエイヤッとばかり両掌を突き出すと谷川の激流がピタリと止まった。映画『十戒』のような光景であったろうか。次に趙昞も負けじと枯れた柳の木にまじないをかけると、ひこばえが生じたというから、イスラエルの超能力者ユリ・ゲラーの種子を発芽させる見せ物みたいだ。水流を止めみせる壮大なショーに比べると、かなりショボい。

そこで二人は、顔を見合わせて笑った。けっきょく登の方が年長だったので、昞が登に弟子入りすることとなった。

 そこは術ではなく年齢で決めるのかよ! さすがは年功序列社会である。

 さて、それから歳月が流れて順当に年上の徐登が(伏線もなくあっさり)亡くなり、趙昞は長安の都に東から入っていった。そこでは、誰も趙昞がマジシャンもしくは自称エスパーだとは知らない。彼は勝手に一軒家の茅葺き屋根に上がると、かなえを据えてのんびり煮炊きを始めた。

 屋根の上には狂人がいたり(菊池寛の戯曲)、バイオリン弾きがいたりするし(ミュージカル)、映画やドラマでもしんみり語り合ったり、ひとり黄昏れたりする舞台であったりするものだけれど、当時の中国ではどうであったろうか。まあ、下に暮らしている者にとっては迷惑この上ない。火事になったりしたら大変だし、そもそも不法侵入である。

「ちょっと、そこの人! いや、あんただよ! 人ん家の屋根で何してるんですか? 早く下りて来ないと警察呼びますよ! いや、聞こえてるだろ、無視すんな! 今、チラ見しただろ、何笑ってんだ、この野郎!」てなもんだ。

昞は笑うだけで答えようとしない。そして屋根にも、別に異状はなかった。

 はい、これでお終い。屋根に異状がなくて良かったね。

 ところで、34話はこれで終わりだが、続く35話も趙昞の話なのである。

趙昞があるとき川岸に来て、渡し船を頼んだが、船頭に断られた。すると、帷を張ってその中に座り、声高く叫んで風を呼び、流れを対岸へと渡っていった。そこで人々は感服して、われもわれもと弟子入りするようになった。
巻2の35『趙昞の祠』

 そこは術で水流を堰き止めとけよ! と思わないでもないし、船頭に断られた理由が書いてないところがヤラセっぽい。ともかく、マジシャンからカルトの教祖になった、と。ところで、長安の知事は実に理性的な人であったらしく、趙昞が民衆を惑わしているのだと不快に思い、彼を捕らえさせて殺してしまった。いつの世もカルトである限り教祖の命運なんてそんなもんだ。

人々は祠を建てて昞を祀ったが、その中には今も蚊もブヨも入ることができないという。

 あんまり霊験あらたかとも思われない。ハッキリ言うと、虫コナーズレベルではないか。

(続く)

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