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【連作】無為のひと⑥彼の故郷

 バー《アルバトロス》の閉店というか、大家による強制封鎖、もしくは強制退去は、それほど私たちの間では話題にはならなかった。事実上とっくに開店休業状態で、倉木以外に足を向ける者が誰もいなくなっていたのだから、「とうとう」というより、今更の話だったのである。

 店というパーツは欠けてしまった。街頭レベルの新陳代謝である。それはそれで宜しいが、マスターというパーツ、こちらの方は未だ欠けずにどこかに残っているはずだ。いや、もう髪が抜け、垢が剥がれるように事実上は代謝されてしまったと言って良かったかもしれない。仕方がない、誰にでも遅かれ早かれ訪れることだ、抗っても甲斐がない、というか、これは抗いようのないことなのである。そんなのは嫌だ! と倉木は思ったのかもしれなかったが、所詮は他人事を、まるで自分事のように誤って考えているに過ぎない。

 しかし、倉木はいつまでも閉じた店の扉の前でぼんやり佇んではいなかった。抜け落ちた髪、剥がれ落ちた角質も、誰かが掃き清めなければ、塵芥として降り積もってゆくことになる。いずれにせよ引導を渡さなければ。

 冨田先生に電話をかけて、マスター(もう店はないのだから、本当はもはやマスターでも何でもない)の親族の電話番号を聞き出そうと試みる。

「マスターの故郷は中部地方の山間の集落で、そういえば十年以上前に皆で遊びに行って、川遊びをしたもんだ」
 先生はそんな思い出を語り始めた。倉木が飲み仲間に加わるずっと以前の話である。

「クーラーボックスにビールを詰めて、河原でバーベキューをしたっけ、あの頃は皆若かったなあ。写真が残っているはずだけど、たぶん店の中だな、もうアルバムも捨てられてしまったか、二度と見ることができないんだろう」

 木漏れ日に目を細めるように、自分たちのかつての若さを眩しがり、惜しんでいる姿が電話越しに目に浮かぶ。百代の過客だ、行き交う年もまた旅人なりだ。日本人だなあ。

「マスターの実家に泊まったんですか?」
「そうそう、田舎の大きな家でね、四五人は余裕で泊まれた。襖を取っ払って雑魚寝だけどな。かなりの遊び人だったとかいうお父さんはとうに亡くなっていて、お母さんの方はまだまだ元気で、手料理を振る舞ってくれたよ。別に特産品なんてないような田舎だったけど、茸とか地産だったかも。会ったことはないけど妹さんがいて、たしか看護婦をしているとか言ってたな」

 そういえば、「あたしたちは看護婦じゃないのに」と言ったうら若き女性たちがいたな。理学療法士だか、作業療法士だか。今さら詮もないことだがけど、禁酒禁煙してまじめにリハビリに励んでいれば、こんなことにならなかったのでは、と悔やまれる。しかし一方では、あのマスターが酒も煙草もスパッと止めて筋力トレーニングに励む姿がまるで想像できない。

「ところで、マスター、元気?」
「知りません」

 今頃どこで何をしているのやら。そもそも生きているのかどうかすら、わからない。あの人は生きているのか、生きているならどこで何をしているのか、それは人が常にそこへ立ち返ってゆく、根源的な問いではないのか。

 店を開けていれば開けているだけ借金というか負債がみるみる嵩んでいたはずだが、返済する当てもなく、支払ってもいなかったから(だから追い出された)、ささやかな飲食代以外に手持ちの現金が減ることはなかっただろう。酒は在庫(来なくなった客のキープしたボトルなど)がどんどん減ってゆくだけで、新たに買い足す必要はほとんどなかったはずだ。しかし、店を失うと小金(毎晩倉木の払う数千円)が一切入って来なくなる。ひょっとしたら、電気・ガス・水道も止められて、部屋の片隅で骨と皮ばかりになって膝を抱え背を丸めじっと飢えを耐え忍んでいるのかもしれない。それとも路頭に迷って、公園のベンチか、橋桁の下ででも股間にかじかむ両手を突っ込んで横たわっているか。そんな妄想を抱くのは、この世に自分一人だけなのだろうかと倉木は思う。

 それにしても、一体全体、なぜ、他ならぬ自分がわざわざ他人の家族にまで電話しなければならないのか。本人が助けを求めれば済む話ではないのか。しかし、脳の病気でそこまで頭がまわらないのかもしれないし、単に家族とは絶縁状態なのかもしれないし、年老いた母に迷惑をかけたくないのかもしれないし……(実はとっくにボロアポート引き払って故郷でぬくぬくとしている可能性だってある)。では、他の常連たち、友達、恋人たち、元妻は? 元妻とは音信不通だし(かつて家から出てゆくように裁判を起こされた)、恋人といえる女性はもういなかったし、泥酔した客の女たちとまるで過ちを犯すように関係を重ねても、それは恋愛とはとても呼べないし、友達といえば呑み友達ばかりでいくらか金を貸してくれた者もいたが、結局は皆離れていってしまったし……。そして結局のところ、マスターが電気もガスも水道も止められた部屋にひきこもって、背を丸め膝を抱えて飢えている、そんな推測というか妄想を、かなりありそうなことだと考えているのは、この広大な世界に倉木ただ一人だけなのだった。その責任のバトンを親族に手渡さなければ、肩の荷が下りることはない。

 母が一人暮らしているという山間の実家と、地方都市で看護師だか何かをしている妹(もう上の娘、つまりマスターの姪っ子は所帯をかまえたという)の電話番号を聞き出した。もちろん、選択の余地はない。

 何時頃に電話をかけて、どんな風に切り出したらよいのか、考えても答えが出ない。ままよ、とダイヤルをプッシュする。

「はい……」呼出音が空しくコールを繰り返し、夜勤かもしれないと諦めかけたとき、どこか冷たい声が応えた。
「夜分遅くに失礼します、初めて電話します、倉木と申します」
「はあ……」
「あのですね、ぼくは《アルバトロス》の常連客でして。いや、だったと言うべきか。実はですね、お店がですね、閉店したといいますか、はっきり言うと潰れました。家賃滞納により大家さんに封鎖されたんです。扉を板で釘付けされて。後ですね、これはご存知かもしれませんが、マスターはご病気をされて」
「知りません」ピシャリと言う。不肖の兄貴とは一才関わりたくないという様子だ。
「病名は?」
「えと……たしか病名は脳梗塞だったか、脳出血だったか、それとも卒中だったか、はたまたくも膜下出血だったか……」

 何もわかっちゃいないと唖然とする。マスターの病名どころか、それらの病気のちがいさえ理解していない。脳の血管が詰まるのと、詰まって出血するのとの相違だけでよいのか。卒中という言葉は、まさか中卒とは関係あるまい(倉木の学歴が高校中退で中卒だから、ふとそんな連想が浮かんだ)。そもそも、くも膜とは何か? おそらく蜘蛛の形をした、いやそうではなく、蜘蛛の巣状の膜? そう、膜が脳の血管を覆うように包んでいて、その下? その膜の下の血管が出血するという脳出血の一種にちがいない、そう思うと、蜘蛛の巣のかかった脳味噌がうすぼんやりと倉木の脳内にイメージされる。そうか、マスターの廃屋のような頭の隅には蜘蛛の巣が張っていたのか。脈絡もなく、唐突にそんなイメージが浮かぶと、あたかもそれですべての謎が解けたとでもいうように、何事かが得心された、ような気がする。

 要するに脳の病気だ。振る舞いがおかしいのも、当たり前じゃないか。

「突然、言葉がもつれて、救急車が来て、いや、その場にいたわけではないですけど、入院しました」
「どれくらい?」
 数週間? 数ヶ月?
「すみません、よく覚えていないです。その時自分は現場にいなかったもので。東京にもいませんでした」

 別に謝ることでもないような気がしたが、なんだか面目がなかった。

「それで?」
「それで?」
「それはいつの話なの?」

 それはいつの話なのか、何ヶ月前か、何年前か、俄には過ぎ去った時間の実質が掴めなかった。あれは、震災復興の仕事で東北へ行っていたのは、冬だった。去年の冬のことか。それから、夏の暑さの盛りにエアコンが壊れ、製氷機が壊れ、冷蔵庫も壊れた。溜まってゆく未開封の請求書で時の流れを測っていたのは、ずいぶん前のことなのか、それとも意外とつい最近の出来事だったのか、そんなことは実は問題ではなかった。遅すぎたのだ、家族に知らせるのが。もっと早くに躊躇することなく電話するべきだった。為すすべもなく、ひたすら救いの手を待っていた、ひょっとしたら、自分が助けを求めていることにすら気づけていない重病人をそこにそのままに放置していたのではないのか。いや、もっと悪いことには、そんな病人と酒を呑み、飲酒も喫煙も止めようともしなかった、どうせ止めても聞く耳を持たないことはわかっていたにせよ。それに知らなかったとはいえ、彼の妹は看護師で病やリハビリの知識の持ち主だったのだ。

「すみません」倉木はもう一度謝った。「たぶん助けが必要です。今すぐ助けが必要です」

(続く)

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