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ジョギングの危険とウォーキングの進化論的適応性

 何年か前までは軽くジョギングする習慣があったが、真夏の夜勤明けに走っていて脱水症状が現れて以来断念した。もう無理はしない。車でジムへ行ってマシンで走ったりするのは、矛盾していると思っていたものだけれど、その考えは改めた。しかし、ジョギングに健康効果はあるのか。

 アメリカにランニングを広めたジム・フィックスという方をご存知だろうか。このジョギングの伝道師は、まさにジョギング中に心臓発作で亡くなったのである。享年52歳。「激しい運動に従事する人は長生きできる」これが、彼の信念であった。(wikipedia)

 激し過ぎる運動は寿命を縮める。考えてみたら、当たり前ではないか。それで、とにかく歩く、こまめに歩く、エスカレーターを避け、階段を利用する。自転車は廃棄した。電動自転車や電動キックボードで移動している若者を見ると、哀しくなってくる、なぜ自分の足で歩こうとしないのか、と。一体、自分のこの両足は何のためにあると思っているのか。

 自分の足で大地を踏み締めて歩くことが健康の第一歩であるのに、この世には、歩くことを厭う輩がなんと多いことだろう。ほんのちょっとの距離でもすぐタクシーを利用する。

 そこで思い出すのは一昔前にあった、ヒトには運動する必要なんてないよ、という仮説である(週刊誌で医者か教授が唱えていたが、残念ながらお名前は失念しました)。見よ、野生動物は意識的、能動的な運動なんて全くしていないではないか、ゆえにヒトも運動する必要がない。いざとなれば、火事場のクソ力でなんとかなるよ。あまりにシンプルな論理で、今となっては反論する必要もないかと思う。

 それとは反対に糖尿病、肥満、腰痛、虫歯など、現代人が悩まされる様々な疾患は、人体の進化と文明の発展のスピードのミスマッチによるものであるという仮説がある。廃用性症候群、もしくは生活不活発病と呼ばれる疾病は、文明(たとえば、車)がもたらしたものである。つまりは、ヒトの体は1日の大半を椅子に腰かけてPCを操作するようにはできていない。進化の方向は多様であるから、そのような作業に適応したヒトもいて、いずれは自然淘汰により運動しなくても健康を保てる新種が生まれてくる可能性がないとも言い切れない。もっとも、大抵は生活習慣病になる前の元気な頃に子孫をつくるのだから、そのような進化は望めないだろうが。

 というのは、自分の意見でもなんでもなくて、ただの受け売りです。

 だとするなら、歩くしかないではないか。元々歩くことが好きな上に、リーバーマン博士の本を読んで理論武装した結果、いささか頭でっかちであったが、歩くことは自分にとって、一種の信仰になった。

 しかし、そうなると1日に10キロも歩いているにもかかわらず、慢性的に体調不良で、ぐっすり眠れず、ずっと疲れが抜けないのは一体何に起因するのだろうか、とジレンマに陥ることになる。
 決まってる。そりゃ、仕事のストレスと酒のせいでしょ。ウォーキングでは解決できない。

 ところが、
「しばらくウォーキングをおやめなされ」
 あるとき、ある人にこう言われたのである。

 いや、それって全否定じゃん。

『ココロとカラダと』第二回

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