【短編】ガード下の女
飲食店のひしめくガード下に、早朝にオープンする呑み屋が一軒あった。午前四時から正午ぐらいまでの営業で、こちらが前を通る(というのは呑み歩く)時間帯にはいつもシャッターを降ろしているから、人から教えられるまで気がつかなかった。飲食業など夜勤明けに足を運んでくる客で賑わうという。一度くらいは行ってみたいと思いつつ、長い間縁のない店であったけれど、転職して夜勤になってみると、仕事帰りの早朝にふらっと立ち寄って酒が呑めるなんて、なんともありがたいと思われた。これももう十年近く前の話になる。
朝まだき、思い切って格子引戸を開けると、カウンター六席と四人がけのテーブルが二卓の狭くて薄汚い店内を、埃の積もった笠の裸電球が何か剥き出しの感じに照らしている。若者は一人もおらず、老人といって良い高齢男性グループがテーブル席を占拠してはしゃいでいるのが、異様な雰囲気を醸し出していた。
カウンターの片隅に陣取って、気の抜けたハイボールを呑んでいると、背後の老人たちのおしゃべりが自ずと耳に入ってくる。帰庫だの裏番だの、会話の端々に現れる単語から、彼らがタクシードライバーであることは容易に知れた。なるほど、揃ってネクタイを外して、Yシャツにベストという格好をしている。
いやはや、まことに下品な連中であった。酒の呑み方が汚らしく、中学生レベルの下ネタに下卑た笑い声を上げる。客やその場にいない同僚への、聞くに耐えないような悪口に耳を塞ぎたくなった。職業差別は良くないし、もちろんタクシードライバーの誰もがこうだとは思わないけれど、今後一切タクシーは利用したくないと強く思った。
厨房はお婆さんが一人で切り盛りしており、ホール係(が必要な広さはないのだけれど)はよぼよぼのお爺さん。当然のように老夫婦かと思ったが、後に人伝に聞いたところによると、お爺さんはかつての常連であり、一時はかなり羽振りが良かったのが零落して、今はお情けで雇ってもらっているということであった。歩くスピードが目を瞠るほど遅く、顔と手の震えが一時も止まない。生ビールのジョッキの取っ手を鉄亜鈴でも掴むかのように、肉の落ちて血管の浮き出た震える手で握り締めてテーブル席へと運ぶ時、泡のほとんどはこぼれて落ちてしまった。おかげで床はいつも粘ついている。自分で運んだ方がよっぽど早く、安全安心で間違いがない。
客層が良くない上に、注文の品が運ばれて来る度にいちいち肝を冷やす、まあ一度来れば充分な店なのかもしれない。しかし、そうは言っても、この時間に呑める店は他にないのだから、週一くらいのペースで通うようになった。そうして、タクシー運転手ばかりではない、もう若くもない水商売の男女やガードマン、清掃員などの会話になんとなく耳を傾けるようになったのである。高齢社会であった。
そんなある夜、ではなくある朝、やはりタクシー老人たちの酒宴がたけなわの頃合、がらりと扉が開いて木枯らしが吹き込むと、そこに腕を組んだカップルが立っていた。
長身痩躯の男とふくふくと肉付きの良い女、ぴったりと寄り添っているせいで一瞬若者かと錯覚したが、光の中へ歩み入ると、男は紛れもなく枯れ木のような老人で、肥えた女の方ももう若くない。まるで腹話術の人形の口元のように、ほうれい線がくっきりと刻まれて、豊かな頬肉は今にも垂れ下がらんばかり。何が嬉しいのかニコニコ微笑んでいる。
いつもは黙々と立ち働いている女将が、この時ばかりはキッとカップルを睨みつけ、「ダメよ、ダメ。もう来ないでって言ったでしょ、出て行って頂戴!」意外にハリのある声で言ったので、店内はしんと静まり返った。
しかし、高年カップルはまるで意に介する様子もない。枯れ木の老爺はまるで無表情で、というか、状況を理解しているとは見えず、女の方は相変わらずニコニコして、二人して腕を組んだままクルリと背中を向けて去っていった、扉を開け放しにして。冷たい風が吹き込んでくる。カウンターの奥で丸椅子にかけていたホール係の老人が、両膝に手を突いて、顔をふるふるさせながら立ち上がろうとするのを制して、代わりに立って行ってピシャリと閉めた。それぐらいのことはする。
「何事ですか?」注文以外で初めて口を利いたような気がする。
「あのひとはね、色情狂なの。この店で……ほんといやらしいったら、ありゃしない」
「へー」
色情狂という古臭くなんだか差別的な言葉を脳内でニンフォマニアに変換してみる。そして、その言葉の持つ妖しくセクシーな(そして、もちろん若い)イメージと、先ほどの小太りのニコニコおばさんを比較してみた。ニット帽に丸眼鏡(遠視なのか、瞳がやたらつぶらに見えた)、オーバーでまるまると着膨れて、真っ青なマフラーが鮮やかに目に残っている。
「俺さ、あのババにセックスしよって誘われたんだぜ」
後ろのテーブル席から頓狂なダミ声が上がった。
「いや、おいらも」
「俺も、俺も」
「おめえ、やったんだべ!」
なるほど何事にも初体験というものがあれば、必ず最後の体験もあるわけだと、そんなことを思っていると、ようやく立ち上がったホール係の老爺が、よろよろと背後を通って(驚くほどゆっくりと)、何をするのかと見れば、戸を引いて黒釉の塩壺から、夜明けの通りへ向かって震える手で塩を何度も撒いた。
(了)
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