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ワンス・アポン・ア・タイム・イン・石神井公園(前編)

 私が大学進学のため上京した年、池袋の東武百貨店の催し場で昭和文学展が開催されたと記憶している。地下にあるJR池袋駅の円柱ごとに芥川龍之介(右上)、太宰治(右下)、川端康成(左上)、三島由紀夫(左下)のポートレートで四分割されたポスターが貼られてあった(割振りは曖昧な記憶に基づく)。
 和服の芥川は文机向かって、左手の親指と人差し指の間で尖った顎を支え、こちらをギョロリを見つめている。太宰は例によって気取ったポーズで頬づえをついて憂いに満ちた眼差しをあらぬ方向へ向けている。川端の上目遣いに見開かれたつぶらな瞳は老いのために濁っている一方で、キリッと口元を引き締めた三島には若く意志的な目力が感じられる。私が愛読してきた作家たちだった。戦国時代の藩主や幕末の志士たちの血沸き肉踊る活躍、あるいは宇宙の果ての知的生命体とのコンタクト、何千年にも渡る銀河帝国の壮大な歴史、更にまた頭脳明晰な名探偵の冴え渡る推理や鬼刑事の執念の捜査ではなく、なぜ、どういうわけで、あれほど昭和文学に熱中していたのか、今聞かれてもわからないし、説明のしようがない。それでも、四人の作家はいわゆる私小説の書き手ではないのだけれど、それぞれオートフィクションとも言える作品を残しており、全員スモーカーで、自殺しているというのが一致している。方法も、薬物、心中、ガス、切腹とバリエーションに富んでいる。
 それにしても、こんなポスターが駅に貼り出されるとはちょっと今では考えられないような事態ではあるが、東京は知的で文化的な都会だと思い込んでいた、笈(実のところ昭和文学が入っていた)を負い衣錦還郷の志を抱いて上京した19歳の田舎者にとっては、それ程シュールな光景でもなかった。事実、足を運んでみると結構盛況であり、何が面白いのか(というのは他人事でいうのであって、私自身は文豪の筆跡を飽きもせず惚れ惚れと眺めていた)生原稿やら遺品(愛用の万年筆などの文房具)やら写真に大勢がじっと見入って、人だかりができたりして、流れが滞っているのだった。年号が改まったその翌年ということもあったかもしれない。その二、三年後に今度は新宿の伊勢丹で川端康成展が開かれて、こちらも(行けなかったが)大盛況のようだった。いやはや、そういう時代だったのである。

 一人暮らしに選んだ先は、大学の生活課で紹介された練馬区石神井で、アパートではなく、一軒家に付属する独立した世帯の二階であって、外階段が付いていた。一階には母屋の主人の息子夫婦が暮らしており、まだ幼い子どもがいた。
 石神井公園駅北口から住宅地方面へとまっすぐとぼとぼ歩いてゆくと、税金対策なのか広々とした蔬菜畑がまだ残されていた。練馬大根というが有名なのだと聞かされたが、未だ口にしたことはない。
 母屋の隠居した老人は、正直よく覚えていないのだが、元刑事か何かだったらしく、契約に訪れたとき、秘蔵の警視総監直筆(それも現役)の手紙を見せびらかして、未成年の田舎者に自慢したものであった。その時、テレビで昔の映画を流しており、(警視総監直筆の手紙に興味が持てなくて)見るともなく見ていると、ふと気がついて声が出た。
「ああ、これは三島由紀夫の『永すぎた春』が原作ですね」
 老人は何の関心も示さなかった。
 又別に機会に、なぜだか居間に通されたとき、やはりのどかな昼下がりにふたりで渋茶を啜り煎餅を齧りながら話し込んでいると、やはりつけっ放しのテレビが流している昔の映画が気になってきて、
「ひょっとして大岡昇平の『事件』ではないですか?」
 と新聞を持ってきてもらって、テレビ欄を確認すると果たしてその通りであったが、だからといって感心されたかというと、そんなことはまるでなかった。たしか実際の事件のモデル小説だったから、元警察なら興味を持つかとも思ったものだが。
 我ながら、まったくどうでも良いようなことを覚えていると呆れざるを得ない。
 それはともかく、この石神井というのを、私は最初「いしかみい」と読んだものだ。又、駅名が石神井公園駅であったことから、暮らしている町を母親にそのように告げたところ(住まいを尋ねられて最寄駅を答えるという習慣が田舎にあったというわけではない。そもそも最寄りに駅がなかった)、家が公園の中にあると勘違いしたのも、どうでも良いような思い出である。通学のために電車に乗るのだが、「こんど」「つぎ」の表示がどちらが先発かわからず戸惑う。ラッシュアワーに重なると、満員電車を何本もやり過ごしても空いたのが来なくて、ホームでずっと立ち尽くすことになる。赤の他人と密着して電車に乗るという経験がなかったのである(自動ドアの上の天井近くに掌を押し付け、エイヤッと背中から押し入るように乗り込むのがコツだ、と後に先輩から教わった)。さらに、終着駅の池袋にやっと着いたかと押しくらまんじゅう状態でホッとすると、ホームの手前でぴたりと止まり、いつまで経っても構内に入らない。電車が渋滞を起こしていたわけであるが、これは腹痛を抱えているときには地獄であった。ようやっと到着し、駅のトイレに駆け込むと長い行列ができていて、絶望に打ちひしがれる。
 さて、駅名ではない方の石神井公園であるが、駅の反対側(南口)の石神井銀座(西武池袋線沿線には○○銀座という商店街が多かったように思う)を歩いた先にあって、石神井池と三宝寺池の二つの池と遊歩道で成り立つ都立公園であり、茶店とボート乗り場があり、休日になると人出があった。イーゼルにキャンバスを据え、油絵を描いたり、サキソフォンやバイオリンを奏でたりする趣味人も少なくない。私もよく散歩に出かけたものである。
 この辺りの居酒屋や小料理屋に入ると、トイレには必ずといってよいほど武者小路実篤の色紙(仲良きことは美しきかな、とかいう類いの)が貼ってあったものだ。しかし、白樺派にとくに興味の持てなかった私にとって、重要なのは、あの太宰治の友人である檀一雄(『リツ子その愛・その死』、『家宅の人』などオートフィクションの書き手である)が石神井在住であったという事実の方だった。檀一雄の色紙というのは一枚も見たことがないけれど、エッセイにはしばしばこの公園が登場し、女の子を誘って太宰とボート遊びをしたなんて話も出てくる(ただし、当時から石神井在住であったかは定かならず)。礫の弥太、隼の銀次などと戯れに互いに呼び合って、乱れた生活を送っていた(らしい)二人にしては、かなり稀少な部類に入る健全エピソードといえるだろう。
 昔々、石神井公園で、太宰治と檀一雄が女の子を誘ってボート遊びをしましたとさ。

(続く)

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