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ワンス・アポン・ア・タイム・イン・石神井公園(後編)

(承前)
 笈を負い、衣錦還郷の志を抱いて上京した田舎者の少年、というか、19歳なのだからもうほとんど成人は、石神井でひとり暮らしを始めた。そして、堕落した。これは何も太宰の影響ではなくて、ただ本人の性向のしからしめるところであった。薬物や女遊びに耽り、非合法の政治活動に身を投じた……わけでもなく、酒と煙草の味を覚え、講義に顔を出さなくなり、作家になるなどと本気で考え出したのである。そのあたりの詳細は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・西池袋』に書くので、ここでは省くことにする。
 とにかく、仕送りの金でひっきりなしに煙草を吸い、酒を浴びる程飲み、稚拙な文章を書き綴る田舎出の19歳など碌なものでない。今、そんな輩が目前に現れたら、目を背ける。いやはやと肩をすくめ、深いため息をついて、首を振りながら立ち去るに相違ない。それが正真正銘の過去の自分だという受け入れ難さ。いや、立ち去らずに引き返し、強烈な平手打ちを二、三発かまして、「いい加減目を覚ましやがれ、この無能無才野郎!」とでも言ってやれば良い。しかし、やり返されるだろうなあ、「おっさん、失せろや」とか言われて。
 酒や煙草というものは、たっぷりと時間をかけて人を、メンタルとフィジカルの健康、さらに脳自体を蝕んでゆくものである。その真実にハッと気づいても、もう遅すぎる、逃げられない。このあたりの詳細は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・高円寺』に描かれることになるであろう。
 石神井の部屋には大勢の先輩、同輩、後輩が泊まっていった。呼びもしない女の子に深夜に急襲されたこともある。そして、後にも先にも、これほど腹を抱えた時期はない。今では、どれほど酒の助けも借りても、もはやあの頃の邪気のない、とは言わないが、腹の底からの大笑いは湧き上がってこないのである。
 元刑事であったらしい、現役警視総監の知り合いでもある母屋の隠居老人は、私の両親に向けて長い長い手紙を書いた。読んでないが、一度息子の生活ぶりを見に上京なさったらよい、などと嫌味がつらつらと達筆で書かれていた模様である。元刑事はひょっとしたら私を尾行したり、張り込んだりして、証拠を集めたものかもしれず、そうなるともちろん私には何のアリバイもなかった。強いて言うならば、本当に嫌らしい物言いになるけれど、やはり文学がアリバイだったと言える。

 よく飲み歩いたのは、従順とも忠実とも言えない、油断ならぬふたりの後輩で、とりあえず、名を戯れに礫の弥太と隼の銀次としておこう。いつものように彼らと居酒屋やバーで文学論を戦わせ、したたかに酔って、石神井へ同伴となった夜、私の発明した「侏儒の言葉ごっこ」に興じた。およそ三十年前のことになるか。芥川龍之介に『侏儒の言葉』というアフォリズム集があり、その中の「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わねば危険である」という、今考えればあんまり出来の良くないアフォリズムをもじって、「人生は○○に似ている。なぜなら……」と続ける遊びである。さて、三人がどんな警句を捻り出したのかは全く覚えていないけれど、どうせ大したものではないことはわかる。そんな才覚はない。「人生は一瓶のウイスキーに似ている。飲んで楽しいのは最初のうちで、悔いと痛みが残るだけ」、「人生は一箱の煙草に似ている。害がないようでいて、確実に健康を蝕んでゆく」、「人生は映画に似ている。面白いのは予告編ばかり」いや、これらは今戯れに即興でつくったもので……。
 ふたりに競わせておいて、「弥太、銀次、お前らは本当にセンスがねえなあ」などと、田舎者のお上りさんがべらんめえ調で先輩風を吹かせるのであった。
 そんなこんなで夜が開け、なんとなくただなんとなく別れがたく、しかし昨夜の散財で懐は寂しく、それでは散歩でもと相成り、自然と足は石神井公園へと向かう。思いもかけず八重桜が満開の公園は花見客で賑わい、レジャーシートを引いて酒盛りしているグループまでいる。キャンパスの染井吉野が散って花見シーズンは終わったものと一人合点していたのは、我ながらあまりにも迂闊なことで、なにか狐につままれたような。
 昨夜のうちに話の種も尽きて、二日酔いの三人がベンチに並んで花見をするともなくぼーっとしていると、一陣の風が吹いて花が舞った。
「もしもし」と声をかけられて見上げると、隆とした身なりの老紳士である。
「君たちは学生さんかね?」
「はあ、一応は」先輩ということで一同を代表して、私が応えた。
「いや、なんだか寄る辺がなさそうで。何かあったのかね?」
 言われてみると、何があったというわけではないが、確かに寄る辺はなかった。ついでに言っておくと、今でもない。
 ソフト帽に分厚い眼鏡、手入れの行き届いた口髭、杖で体を支えているが背筋はしゃんと伸びて、なかなかダンディな三揃いの老人だった。ポマードの香りがする。対する我々三人は、シャワーも浴びずそのまま寝たので昨夜と同じよれよれの格好で、寝癖のまま無精髭の呆けた顔を猫背気味に並べていた。
 桜吹雪のなか、ひとりのカクシャクたる老人が三人のムサい若者を見下ろしている図となる。
「あの……」言いかけて、私は黙った。とくに言うべき言葉なかったからである。
「いや、それにしても覇気がない。いいかね、まだ若いんだから、褌をぎゅっと絞って……私なんぞは……」などと、延々と続く年寄りの自分語りが始まり、私たち三人は互いに顔を見合わせた。なんか面白いことが始まったぞという期待もあって、その表情は困惑だとか、迷惑だとか単純に一言で言い表すことはできない。
「さ、どうぞ、お掛けになって」
 東京出身、実家住まいの弥太が老紳士に席を譲った。これだから良いとこの坊は違う、こういうときに育ちの差が出るのものだ。情けないことに、私も、同じく地方出身の銀次も平気な顔をして腰掛けたままなのである。
 そんな私でも一応は敬老精神はあるもので、大人しくふんふんと相槌は打つものの、輝かしい未来が待ち受けている(はずだった)私たちにとって、サラリーマン生活、単身赴任、子どもの独立、孫の誕生、妻の死などという平板な人生物語は退屈なものだった。退屈だったということは覚えているが、詳しい内容は記憶からすっかり消えている。鋭過ぎて精神を病んでる人、酒浸りの無頼派、天涯孤独の不能者、エリート官僚の同性愛者のオートフィクションのようには刺激的ではないのである。昨今、高齢者の孤独ということが社会問題になっているが、孤独な老人がふと見かけたしょぼくれた若者たちを相手に自分話を縷々と語って、退屈と寂しさを紛らわせている、それだけのこと。スーパーやコンビニでも、忙しい店員を捕まえて離さない年寄りがいるものだ。会話ではなく、独演会染みる、ただし素人の。
「……しかし、旦那が外で戦っている間、女房が内で何をしているかなんて、わからぬもんですな」
 いきなり際どいことを言ったかと思うと、「所詮、人はひとりなんですなあ」と慨嘆したりする。「さてさて、このわたくしも、あと何年生きることやら」
「いえいえ、そんな。まだまだお元気そうで、きっと長生きなさいますよ!」と励ますのは弥太である。こういう無責任な口先だけの優しさや励ましが、いつも私には不可能なのだった。
「願わくは 花の下にて 春死なむ」瞑目して、老人が詠んだ。少々芝居がかっていないでもない。「西行法師です」
 それぐらい知っとるよ、とわざわざ口にしたりしないのは、敬老精神のしからしめるところである。
「これはね、腹上死のことを歌ってるわけですな。わたくしも最後には美しい女性と」にょしょうと発音した。「一戦交えて……ほっほっほっ」
 弥太と銀次が笑いを堪えて見交わした。 
 それから、おもむろに老紳士は懐から取り出した長財布からピン札を一枚抜いて、ひとり立っていた弥太がこれを剥き出しのまま受け取った、きょとんとした顔をして。
「さあ、お若い方々、これで精でもつけなされ。褌をぎゅっと絞ってな……ほっほっ」
 桜吹雪の中、遠去かる後ろ姿を、三人はぽかんと見送る他なかった。
「馬鹿、返して来いよ」
 我に返った銀次に言われて、弥太は走った。しかし、人混みに見失ったとすごすご戻って来た。
「ありゃ、仙人じゃ! 桜の仙人じゃ!」と銀次がおちゃらけた。以来、老紳士は三人の間で仙人として通ることになる。
 もちろん、その一万円札は先輩である私が独り占めしたりしないで、性懲りもなく三人で酒を飲んだのである……。

 それからおよそ三十年の歳月が流れ、いかに仙人といえどももはやこの世にはいまいし、更に三十年が過ぎれば、私たちも消えているだろう。仲違いもあり、消息の知れない銀次が現在、生きているとも限らないである。人が死ねば呆気ないものだと痛感し、生きていればそんなに簡単に逝くはずもないと高を括る。
 こんなはずではなかった、と叫びたくなるような時期もなんとか乗り越えて、長生きしようと煙草も止したし、酒も控えている。そうして近頃、街中で若者の傍若無人な振舞いがやたら目につくようになった。「近頃の若者は……」と紋切型を口にすることは決してないが、反感がないわけではない。しかし、あと十年もすれば、それなりに張り合おうとする気力も尽きて、しょぼくれた青年を見かけると、「もしもし、学生さんかね」などと声をかけかねないのではないか。そうして、自分の退屈極まりない人生の話を聞いてもらうのである。
「昔々、石神井公園で……」

(了)

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