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【連作】無為のひと⑤諸行無常の響きありだ

 こうしてバー《アルバトロス》は呆気なく潰れた、端から見るとある日突然ぷつんと、しかし内側からはじわりじわりと蝕まれ(まるで脳の血管の溜や栓がしだいに大きくなるかのように)、何の計画性もなく、それでいて偶然などではまるでなくあくまでも必然的に。

 街を歩いていると、ビルの解体や新築工事、テナントの入れ替わり、区画整理などにより風景がどんどん移り変わってゆくことに気づかされることがあるが、人の成長や老いというものがあまりに緩慢なため身近な者の眼には見えず、たまに会う者にハッキリと見て取れるように、却ってそこに住まう者は、こうした変化に鈍感なのかもしれない。そしてある時、不意に何もかもが変わってしまったことに愕然とさせられる、そのようなことが、たしかにあるはずだ。あの老舗の和菓子屋はいつなくなったのか、この行列の出来ているラーメン屋はいつ開店したのか、以前は何の店だったのか、どうしても思い出せないというふうに。

 こうなると、テセウスの船(修理され続けて元の部材が残っていない)だとか、ワシントンが桜の木を伐った斧(刃を三度、柄を二度ばかり取り替えた)とかいうパラドックスを持ち出すまでもなく、まるで見知らぬ街で暮らしているということにならないだろうか。部分を構成するパーツが一つ、二つと少しずつ変わってゆき、やがては全体がすっかり入れ替わっているという風に。

 私たちがよく通ったあの店はもうなくなってしまった。仕方がない、別の河岸で呑むまでだ。だが、気がつけばその店ももう長くない。 

 ここのバーのマスター、脳梗塞で倒れてしまったんだって、あそこの小料理屋の女将さん、癌になったという噂を聞いたよ、老夫婦のやっている中華料屋、ずいぶんお世話になってきたけれど、さすがに店を畳むことになったらしい……。店ばかりではない。最近見かけないと思っていた常連の年寄りは、実はとっくに亡くなっていたと聞かされる。そんなこととは露知らなかった。まだ働き盛りなのに体を壊し、生活保護の厄介になる者も出てくる、医者でなくても原因は、まあ酒と煙草ぐらいだと想像がつく。心を病む者、仕事を失い貧困に陥る者、行方をくらます者、自ら命を絶つ者……結局のところ私たち自身が全体を構成するパーツの一つに過ぎないのだ。そんな当たり前のことにも、若いうちにはうかつにも気づけないまま過ごしてしまう(だから、若者は傍若無人に振る舞うのか)。そしてある時、そうか、これが諸行無常ということか、とふと思い当たる、いや、全然見当違いかもしれないけれど。

 中学校の古文の授業で暗記させられたものだ。ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみか、またかくのごとし。なんだ、そのまんまじゃないか。かつ消えかつ結びて、と来て、久しくとどまりたるためしなし、か。テセウスの船にせよワシントンの斧にせよ、この国では出番がないようだ。

 それにしても、熱心に勉強もせず興味もなかったのに、役にも立たないことを意外と覚えているものだ、と倉木は我ながら呆れる。試しに他の記憶をひっぱり出してくると、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……盛者必衰じょうしゃひっすいことわりをあらわすだとか、月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり……漂泊の思い止まずだとか、切れ切れに断片的に、かつ消えかつ結ぶのが、あやしうこそものぐるほしけれ、という感じである。

 ようやく黄昏が訪れ呑みに出ると、ふと知らぬうちに世代交代が進んでいることに気づかされる。そんなことが何度も繰り返された。まだ年を重ねることが衰えを意味することのない若い者の切り盛りする新しい呑み屋が次々とオープンして、そこに集う持病に悩まされることもなければ、深い喪失感も抱いたこともなく、お医者から禁酒・禁煙を仰せつかることも未だない若者たちの屈託のない賑わい、時にその狂騒は、なんだか急に老いさらばえたように思われてくる私たちをはっきりと拒絶している。時の砂時計はひっくり返ることがないのだから、そこに足を踏み入れることは決してないのだろう。

 どうせ奴らもすぐ衰える。

 実際のところ、祇園精舎には鐘はなかったというし、当然ここにもないけれど、それでも聞く耳さえあれば、諸行無常は常に響き渡っているではないか。なんという月並みな感慨、真理というものはこんなにも陳腐なのか。別に酒や煙草を止め女人を遠ざけ、悟りを開くまでもないことである。

 いや、無常であるからこそ、呑むのだ。

(了)

『無為のひと』⑤

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