見出し画像

【エッセイ】捜神記私抄 その六

不老不死の願い
 死にたくない、老いたくない、長生きしたいというのも、これまた古今東西全人類にとって共通の切実な願いであろう(早く楽になりたい、ここまま生きていても仕方ない、もう疲れてしまったなどのネガティブな情動はさて措く)。金持ちになりたい、キレイになりたい、異性にモテたい……普遍的な願望のあるところ、常に詐欺やペテンが横行する。いつまでも歳をとらない、死んだが復活したとか、鳥になって飛び去ったなど、ある意味でファンタジーである。

 ファンタジーを生み出すどころか、ファンタジーを信じ、それを生きる。なんとも妙な動物であることよ。

偓佺あくせんは山で薬草を採取していた老人で、松の実が好物であった。全身毛むくじゃらで、眼は正方形、飛ぶと馬より速い。皇帝に松の実を献上したが、召し上がられなかったという。当時、その松の実を食した者は、三百歳の長寿を全うした。
巻1「不思議な松の実」

 四十年かかって錐で岩に穴をあけ、やっと不老不死の霊薬を手にした者がいれば、そのへんに落ちている松の実を食って長生きする者もいる……。

 それはともかく、方士など、どうせインチキで民衆をたぶらかし、権力者におもねりつつ利用する浅ましい連中だと思っている。(皇帝に松の実の送ったというエピソードに注目)。始皇帝に取り入った連中がすぐに浮かぶし、この手の輩は現在もいるのであろう。だから、ありがたいような仙人の説話も胡散臭く思えてしまう。それでもね、結局のところフィクションを書くというのは、読者をたぶらかしペテンにかけることではないのか、と思わないでもない。

 巻1の18「薊子訓けいしくん」より。

 薊子訓という人が、どこから来たのかわからない。後漢の頃、洛陽に来て公卿くぎょうたちの屋敷を表敬訪問して回ったが、手土産は酒一斗と乾肉一切れしかない。

「遠方より参りましたので、こんなものしかありません。つまらぬものですがどうぞ」などと澄ましている。

 ところが、そのお酒と乾肉は百人の客人が一日飲み食いしても尽きることがなかったというのだから、まるで福音書のイエスのエピソードそっくりではないか。

 その頃、洛陽には百歳になる老人がいて、こんなことを語った。
「私が子どもの頃、薊先生が市場で薬を売っているのを見かけたけど、今とまったく容姿が変わらなかったよ」

 まあ、年寄りの記憶など当てにならないものかもしれぬが、そんなこんなで薊子訓の名声が高まり、洛陽にいるのが嫌になってしまったのか、ふっつりと姿を消してしまった。おいおい、自分から目立つような真似をしたんじゃないのかい? というようなツッコミはさて措く。

 それから、正始年間というから、何十年も経ってから、長安の賑わう市場で、一人の老人と一緒にいる薊先生の姿を見かけた者がいたが、やはり全く老いていない。東に薊子訓、西にサンジェルマン伯爵ってところかな。

 アンティークの銅製人形をやさしく撫でながら、「この人形を鋳た時に居合わせたものだけど、あれからもう五百年は過ぎたかなあ」なんてうそぶいている。

「薊先生ではありませんか、お待ち下さい」
 声をかけると、二人は並んで歩きながら、振り向きもせずむにゃむにゃ返事した。ゆっくり歩いているように見えるのに追いつかず、もどかしく走り出す。それでも、届かない。

 やがて二人は人混みに消えた。

(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?