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【エッセイ】風変わりな人々(急)

 アカデミックな美術教育を受けていない、独自の表現者の作品をアウトサイダーアートという。何らかの精神疾患のある人の表現という意味合いが強いように思うが、心を病んだ人が当たり前な風景画を描いても、それをアウトサイダーアートとは呼ばないだろう。やはり妄想や強迫観念が表現されていなければならない。もちろん、私はそれはもう興味津々だったさ!

 日本でも奇抜な格好をして、一種のパフォーマンスであろう、街を練り歩いたり、自転車で流す方がいて、当然のように畸人研究学会(言うまでもなく、『畸人研究Z』の編著者である)が注目、アウトサイダーアーティストとして名を知られるようになった。そしてまあ、TVで取り上げられたりするわけだ。そう、どうもこれには、「俺の個性を見ろ!」の匂いがする。いくらド派手な衣装を身に纏っても、残念ながらそれだけではeccentricityが滲み出したりしない。もしそうなら、誰でも簡単に奇人になれることになってしまう。こういう方々が、若くして散ったミュージシャン、破天荒な生き方をした作家、天才物理学者より注目に値するなんて、まるで思わないよ。

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 数年前、とある若手地方議員が政務活動費を詐取したとして、釈明会見を開き国中の話題をさらった。あの「この世の中を!」で有名になった号泣会見である。だんだんこちらが過去の過ちを責められているような気がして苦しくなるので、個人の謝罪会見は避けるようにしているのだが、この会見は清々すがすがしいまでにeccentricだったと言える。ド派手な衣装など、彼にとっては不必要なのだ。会見で見られた奇妙な言動もさることながら、その後に報じられた普段のエピソードの数々(正に「常軌を逸している」「エキセントリックな」などと形容されている)もなかなかに面白く(あまりにユニークと言わざるを得ない名刺の画像もあった)、ブログなどのぞいてみたり、かつてのeccentric好きの血が騒ぐというか。それにしても、この方に投票した有権者たちは、一体どんな想いを清き一票に託したのだろうか。

 人間には三つの欲がございますなあ、食欲、性欲、海水浴……というのは鳥肌実さん(eccentricである)のお約束のギャグ。三大本能ならば、三つ目はまあ睡眠欲というのが妥当だろうが、欲求というのは必ずしもわかりやすい本能ばかりではない。たとえば、心理学者マズローの自己実現理論というのがあって、人間は自己実現へ向けて成長するそうで(周囲や自分自身を見てると、そんなことないと思うんだけどね)、欲求の五段階説ということを唱えている。最下段には生理的欲求(食欲、性欲、睡眠欲、そして海水浴が含まれるだろう)、上へ向かって、安全への欲求、社会的欲求、承認欲求、そして最上階が自己実現となる。かなり健全な、ということはウソ臭い理論のような気がしてならないのだが。

Wikipediaよりお借りしました。

 マズローの仮説によると、この元地方議員の方は、選挙に出馬して当選したわけだから、承認欲求を満たして、自己実現を達成したことになるのだろう。そして、不正に手を染めた。それはなぜか? 金銭欲、それとも犯罪欲であろうか。そして、バレなければズルをしても良く、おそらくバレることはないという甘い考えがその背景にあったのだろうか。そもそも金銭への欲求というのは、マズローの五段階カテゴリーのどこに所属するのだろうか。金儲けこそが自己実現だという商人気質の人間だっているだろうし。

 金銭欲だとか、バレなければズルをして良いなどという甘い見通しには、実のところ全然風変わりなところはない。つまり、風変わりという点においてこれほど得難いようなお方が、残念ながら私が考えていた程風変わりではないということになってしまう。いくら弁明がeccentricであっても、そこでどうにも冷めちゃうわけだ。

 eccentricというものをそんなにありがたがらなくなって、それで拓けてきた地平がある。それは社会人の仮面を被っていても、私たちは凡庸でありつつそれなりに風変わりであるという視点だ。みんなちがって、みんな変とでも言うべきか(それが良いかどうかは保留にしておく)。NOTEで人様の文章を読んでいて、控え目に言ってもかなり個性的な作品に出会うことがある。たとえば単に奇を衒っているのではない、内側から滲み出るような狂気。しかし、それよりむしろ圧倒的なのは、おセンチなポエム、面白くもなんともない日常のルーティンの羅列、恐ろしく陰気な内省、反対にひたすら前向きな決意表明、途方もなく夜郎自大な自分語り(他山の石とします)、そしてウサン臭い投資指南に怪しげなスピリチュアルなどである(あなたのことではありませんよ!)。たしかにある意味風変わりなフレーバーがする。

 しかし、みんなが変ならば、真のeccentricはどこにあるのか。考えてみれば、承認欲求というものも生理的欲求と同じように普遍的なものだから、作品をつくって人に見てもらいたい、褒めてほしいというのは、これはもう平々凡々たる欲求である。半素人劇団やアマチュア・バンドのチケットをどれほど摑まされてきたことか(今では大概断ります)。しかし、表現欲求は必ずしも承認欲求と重なり合うとは限らない。たとえば、私が思い浮かべるのは、作品を発表するどころか誰に見せようともしなかった、アウトサイダーアートの代表選手ヘンリー・ダーガーような人物だ。あるいは、原稿を焼却するよう遺言するカフカ、自作を次々破壊するフランシス・ベーコン……これこそ他者なき孤高の世界への自意識の喪失であって、私たちが彼らの作品に触れられるのはたまたまなのかもしれないのだ。

 自己顕示欲からの解脱こそ真のeccentricであるが、その作品が優れているかどうかは又別の問題であって、そこが難しいところだなあ、と思ったりもする今日この頃なのである。

(了)

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