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【短編】アルコール&シガレッツ

 震災後のいわゆる復興バブルが落ち着いた頃になって、ユージは誘われて東北へと出稼ぎに出た。あちこち転々としながら、日雇い用の宿舎や団地、一軒家などでむさい男たちと集団生活を送ったのである。道路や橋梁など土木工事の手元作業が主な仕事だった。

 平日は仕事の後に呑みに出る元気は残されていないけれど、その分土日になると痛飲したものである。思えば、まだまだ若かった。日曜日は、決まって昼過ぎにのそのそ起きだし、前夜の二日酔いを抱えたまま、歓楽街をほっつき歩いた。東北最大といっても歌舞伎町をぎゅっと圧縮したようなところで、昼間は閑散として、キャバクラや風俗店などの入った雑居ビルもネオンがなければいかにも裏ぶれて見えるのである。

 昼間から呑める店はすぐには見当たらなかった。だから、ぐるぐる歩き回って(あっという間に一周してしまう)、角に立つモツ焼き屋を見つけた時は嬉しかった。古びたモルタル壁のその店のある一角だけが取り残されたかのように昭和の雰囲気を残していたのは、もちろんコンセプトではない。一見営業しているとは見えないけれど、窓から飛び出た排気ダクトから流れる煙が、午後の陽光に溶け込んでいた。

 曇りガラスの引き戸を開けると、コの字型のカウンターのみの店で、客はいなかった。ユージはホッピーを頼み、これまたレトロな割烹着姿の初老の女将に焼き物を適当に見繕ってもらった。

 酔い回るにつれて、集団から離れて、昼間から一人でひっそり呑むことの楽しさがじわりと染みてくる。過去を振り返らず、未来も想わない、その時切りの孤独な楽しみであった。さらに煙草に火をつけて深く吸い込むと、ただそこでそうしているだけでもう十分満足だ。酒と煙草、安易で月並みな報酬。決して安上がりではないし(煙草の法外な値上がりは彼を激しく苛立たせた)、確実に脳と体を蝕んでゆく。とはいえ、安易で月並みなことに変わりない。何の努力も研鑽もなく、体も脳もほとんど使わず、ただ杯と煙草を交互に、繰り返し口元に運ぶだけで報酬系が刺激されるのである。休日の昼下がりの素晴らしき飲酒。ああ、と感嘆詞を頭に付けても良いぐらいだ。しかしユージは、かつて酒と煙草以外の報酬を知っていたはずだった。それは読むことの刺激と、書くことの高揚だった。今、何かを書きたいという気持ちがないわけではなかったけれど、一体何を書けば良いのか。アルコールを称えた詩人がいたっけか、だったら煙草を称えてもおかしくない。ああ、休日の昼下がりの素晴らしき飲酒と喫煙の安易さよ……。いや、いくら何でもこれでは月並みすぎるか。

 はばかりを借りようとしたら、驚いたことに外で用を足せと言われた。教えられたのが、すぐそばにある二軒の立派な門構えのソープランドに挟まれたパチンコ屋のトイレなのだった。そのうち一軒のエントランスは古代ギリシャの神殿を模しており、しばし尿意も忘れて昔授業で習ったドーリア式だかコリント式だかの柱頭をしげしげと見上げた。

 戻ると、カウンターの奥の厨房で女将の娘らしき人が立ち働いていることがわかった。これが表へ出てくると、化粧っけのまるでない、間の抜けたような表情で、ユージの勝手な憶測に過ぎないが、跡を継いで店を切り盛りするような才覚どころか、そもそも自立・自活することすら難しそうに思われた。

 さて、ユージがすっかりいい気分でいると、引き戸が開いて二番目の客がふらりと入ってきた。他に客はいないのに、なぜかユージのすぐ近く、丸椅子一つ分だけ空けて腰掛ける。それだけでたちまち、パーソナルスペースとプライベートタイムを侵されたような嫌な気分になるのだった。とにかく話しかけられたら嫌だなと思った。ずっと年上の華奢で厚みのない、なんだからぺらぺらな中年男性は、厳しいと肉体労働で鍛えたユージの近くに掛けると、吹けば飛ぶように見える。常連らしく黙っていても徳利がさっと出てくると、左手にはお猪口、右手の親指と人差し指で煙草を挟んで、猫背気味になって酒を呑む合間合間に小刻みにスパッスパッと吸った。

「兄さんはあれかい? 復興の仕事かい?」
 ほらね、やっぱり話しかけてきた。「まあ、そうですね……」
「ありがとね」
「何も感謝されるようなことはやってないですから」
「それで東京から?」
「……まあ」
「懐かしいな、俺は若い頃、東京にいたんだ」
「そうですか」結局は自分語りがしたいんだろ。こちらから話を振ったりしないから、いい加減一人にしておいてくれないかな。

 炭火でモツを炙りながら、上目遣いで女将がこちらをちらちら窺っている、その顔色が気のせいかもしれないが、心配しているようだった。

 瞬く間に一本目を呑み干して、二本目を注文した男は急速に酔いを深めてゆくようだった、迷惑なことに。慣れてないというわけではなさそうだが、酒の呑み方、煙草の吸い方がぎこちないというか、不自然に忙しない。そして、先ほどまでは手元の猪口をじっと見下ろしていたのに、今やユージの顔をあからさまに眺め回しているのである。

「兄さん、幾つだい?」
 ユージは答えずに、新しい煙草に火をつけると、スマートフォンを起動して画面をスクロールし始めた。
「そうかい、俺は五十になった。それで独り者なのか」
 ユージは、ふーっと煙を吐き出す。
「そうか、俺も独り者さ。津波で家族を失ったからな。女房も子どもらも両親も、みーんな死んじゃった」
「……」
「大切なもの、かけがえのないものは全て喪った。なんで俺一人だけが生き残ったのか、よくわからんよ。子が助かるなら、こんな命くらい、いくらでもくれてやったのに……」

 津波の映像なら、ユージはTVに釘付けになって観たものだ。それだけではない、東北へ来て、現場への往復に長い海岸線を走ったが、窓外には片側に海、反対側には視界を遮るものがほとんど何にもない空っぽな風景が広がった。最初は休耕地かと思ったほどである。朝には果てしない青空の下、帰りには夕闇を縫って、作業員を一杯に詰め込んだバンが一台、そのなかを駆け抜けた。ところどころに瓦礫の山がある、波打ち際の小学校の廃墟の前を通りすぎる、アスファルトの道路はあちこち罅割れ陥没している、橋のガードレールはぐにゃぐにゃ曲がっている、浅い小川には自転車やオートバイ、冷蔵庫など、さらにはもはや原型をとどめないかつては役立つ家具であったものの残骸が錆びつくままに放置されている。しかし、信号もなく車は停まることなく、誰も降りてみようなどと言い出さないものだから、窓ガラスが液晶画面であるかのようにどこまで行っても遠い光景であった。

 よりによってこの俺を摑まえて、なぜこんな暗い話を。

 初めてまともに男を見つめた。泣いたりなんかしていないし、表情も曇っていない。黒目がちな目がまっすぐ見返してきたので、視線を逸らせてスマートフォンを見下ろす。

「そうですか」と言った後に、何と続けて良いのかわからない。ご愁傷様です、心よりお悔やみを申し上げます、これじゃ葬式の挨拶だ。

「まあ、もう生きていても仕方ないよ。だから、こうして酒を呑んで煙草を吸って病気になって、お迎えが来るのを待ってるだけなのさ。だけどあんたは、兄さん、まだ先が長いんだからさ、健康に気をつけないと」

 肴も注文せず、おそらくまだ三十分も経っていないのに、腕時計を見ると、「おや、もうこんな時間か」と男は立ち上がり、尻ポケットから長財布を取り出した。小柄なのが、酒を呑んでさらに縮んでしまったようだった。

 妻と子供たちか……とユージは思った、自分が持ったことのない存在だし、これからも存在しないだろう。それどころか、家もない、車もない、そもそも財産もない。予め存在しないものは、どうやったって失うことはできない。それならば、かけがえのない存在なんて最初からいない方が身軽で良い、どうせ遅かれ早かれ喪失が訪れるなら。この男を見てみろよ、まるで幽鬼じゃないか。

 会計を済ませて男がゆらりと出ていくと、女将が頭を振りながら言った。
「あの人はね、この辺りでは有名なんですよ。あちこち出入りしては、知らない顔を見つけて同じ話をするんです。どこでも煙たがれているみたい」
「んー」

 そうして、アルコールとニコチンの大量摂取で頭が濁っていたけれど、ユージはスマートフォンのメモに文章を入力し始めた。「震災後の復興バブルが落ち着いた頃になって、誘われて東北へと出稼ぎに出た。あちこち転々としながら……」

(了)

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