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【エッセイ】風変わりな人々(序)

 かつてはエキセントリックな人たちに惹かれたものだ。ずっと昔、子どもだった頃。eccentricには名詞でズバリ奇人、変人という意味があるけれど、eccentric person(風変わりな人)というような表現もあるようだ。

 エキセントリックという言葉を、中学の英語の授業で教わったわけではない。一体こんな単語を、テクストのどんな文脈で登場させれば良いのだろうか?

 His brother is very eccentric.

 不適切というわけではないけど、生徒に是非とも教えるべき単語ではないような気がする。

 よく覚えていないけれど、おそらく映画雑誌ででも覚えた言葉なのだろう。「エキセントリックな役柄を得意とする」とか、「エキセントリックな魅力」とか。ここでは(というのは、あくまでも映画というフィクションの世界では)、風変わりであることがポジティブに捉えられている。科学者や芸術家、それに犯罪者などが通俗的な意味でエキセントリックに描かれるのはよくあることだ。そうでなければ、観客は消化不良を起こすのではないか。

 しかし、私が風変わりな人々にどうしようもなく惹かれていったのは、映画の影響ではなかった。eccentricなどという単語を知るずっと以前から、クラスに一人はいる変わった子どもに魅せられたのである。彼、又は彼女は、輪に加わることなく、いかなる同調圧力からも超然としており、確固とした自分の世界を持っている。そして決して笑うことなく、言葉を発することすらない。あるいは又、決して笑ってはならないシチュエーションで突然笑い出したり、何人たりとも理解不能な言葉を発したりする。彼らの頭の中は一体どうなっているのだろう?

 育ち盛りだというのに、給食にほとんど手をつけない食の細い子がいた。おしゃべりから離れて、いつも本を読んでいる子がいた。絶対に笑顔を見せない子がいた。今考えれば別にeccentricという程でもないかもしれないけれど、幼い私の理解の範疇を超えており、人と違うということは一歩間違えばいじめや排斥の対象とされかねないのに、ただ好奇心をそそられるだけではなく、憧れさえ抱いたのだった。反対に「わたし、ちょっと変わってるって言われるんです」や「俺の個性を見ろ!」というような剥き出しになった自意識からは目を背けざるを得ない。本当の意味でのeccentricとは、他者なき孤高の世界への自意識の喪失でなければなるまい。例をあげよう。

 同学年にいつもひとりぼっちの女の子がいた。同じ団地に住まう小学校高学年の生徒が近所の低学年の子らをまとめて引率する集団登校に、群れるのが嫌いなのか、それとも逆に敬遠されていたのか、なぜか彼女は一度も参加したことがなかった。あるとき、どこからか拾ってきた仔猫を抱いている姿を見かけた。それ以来、生まれたての赤ん坊を愛おしそうに抱く若い母親のように、いつもその黒猫をあやしていた。ずいぶん大人しいと思っていたら、それは死骸であって、やがて腐敗し始めた。「あの子とは遊んではいけません」ときつく親に言われた。これは、「わたし、ちょっと変わってるって言われるんです」ではない。

 彼女は担任のヒステリックな中年女性教師(ブルドックのように頬肉の垂れた白塗りの女)と折り合いが悪く、というか目をつけられて、様々な嫌がらせを受けてやがて転校していった。それはハラスメントや体罰というより、暴力や辱めであって、はっきり覚えているのは、みんなの前で教壇の上の椅子に座らされて、そのまま後ろへと引き倒されたことである。しかし、孤独な女児は涙を浮かべることすらなく、黙ってじっと耐えている。それがますます火に油を注ぐことになった。……

 もう一つの例。中学生の時に、級友数名と地図も持たずに自転車で遠出した。みんな、開発途中でまだ空き地も目立つベッドタウンの少年たちで、町からこの何もない田園風景の中に引越して来て、少々退屈していた。岡を越えトンネルを抜け農村を通って、腕時計と相談しながら、とにかく行けるとこまで行ってみよう。集落と集落との間は緑しかない。ようやく辿り着いた見知らぬ里は、盆地のように周囲を山に囲まれていたが、不思議なことに古びた木造の広々とした農家はなく、それどころか田畑もなく、区画整理された新建材の住宅地になっているのだった。人っ子ひとりいない休日の午後、メインストリートの坂道をブレーキもかけずに走り抜けた。小規模な商店街はシャッターを降ろし、学校は廃校となり、一昔前のベッドタウンがゴーストタウンと化したのだろうか。一軒の奇妙な家が目に留まった。それは城だった。といっても、100坪程の土地に白亜のミニチュア天守閣だけが建っていて、三層の瓦屋根がいかめしげに裾を広げているが、最上階である三階は大きさからいって単なる飾りに違いない。それでも小さな一対の鯱鉾しゃちほこまで付いていた。ひとりなら夢でも見ているかと思ったことだろう。しかしこれは、「俺の個性を見ろ!」ということではないのか。こんな家を建て、満足してそこに暮らしている人間は、それなりの興味を掻き立てるかもしれないけれど、TVででも紹介するのに相応しい程度である。丁髷ちょんまげのカツラでも付けて、きっと嬉しそうに取材に応えてくれるだろう。

(続く)

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