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【短編】ジャズと現象学 後編

 短くなった安煙草を太い親指と人差し指でつまんで旨そうに吸っているハンチングに派手な柄シャツ姿のオーウェンさんはたしかに様になっていたけれど、カウンター越しに見ていると、酒場のオヤジ六十歳限界説がどうしても脳裏をよぎるのであった。けれども、いつまでも、どこまでも正常性バイアスと不安症の板挟みのような日々がだらだらと続いて、店を閉じたマスターと他の店へ呑みにゆくということもあった。閉店時刻には会計も覚束ないぐらいに酔っ払って、もうニコニコ顔である。営業スマイルやCMは別として、シラフの大人が決して見せないような飛び切りの笑顔を向けられると、こちらも相当できあがっていないと当惑する他ない(しかし、私も知らぬうちにこんな天真爛漫な笑顔を浮かべているのかもしれぬ)。あるいは、その笑顔は営業スマイルやCMでタレントが見せるものとは実は全然別ものであって、厳しい鍛練の果てに栄光を掴みとったアスリートや、困難が大きければそれだけ喜びも大きいような初登頂を成し遂げた登山家が見せる、内側から滲み出てくるような笑顔に近かったかもしれない、何の鍛錬も困難もなく、ただ大酒呑んだだけであったけれど。
 自分の店で客に酒を呑ませた方が儲けになるにもかかわらず、「今日は閑だからもう閉めて、ユミさんとこ行こうよ」などとまだ早い時間から言い出したことも一度や二度ではない。そんな風に誘われると、その先のことは記憶にないどころか、どうやって家にたどり着いたのかさえあやふやな始末で、冷蔵庫に覚えのない缶ビールや缶チューハイが並んでいたり、弁当を温めようと電子レンジを開くと、中からいつのものかわからない惣菜が出てきたりするのは、こういう時に購入したものらしい。

「あー楽しいなー」と、酒を呑みながら目を細めるオーウェンさんを見ていて思い出したのは、やはり私の隣の席で酒を呑みながら、目を細め「あー楽しいなあー」とまったく同じセリフをかつて呟いた女のことで、自分を痛めつけるかのように呑み、次から次へと煙草を灰にしてゆく彼女に付き合っていると、こちらの体調が段々とおかしくなっていったものだった。
 人生ってのは、そんなに楽しいもんでもない、だから人は酒を呑むのか。子どもの頃なら、酒なしで何にでも夢中になれたものだったのに。恍惚なしで人は生きられないと言った作家がいたけれど、それはとくにアルコールを指してではない。ドラッグやセックスのような快楽をらもたらすものとも限らず、ギャンブルのようなスリルと興奮をもたらすものとも限らない。スマホのアプリゲームのように依存症を引き起こすようなものでなくても、スポーツ観戦の熱狂、音楽の陶酔(ジャズの陶酔というのは自分には想像できないが)、前頭葉の痺れるような憎しみの増幅……味気のない退屈な日々から人を目眩めくるめく高揚へと至らしめる機会がある。忘我という、その味気のない退屈な日々を生きる我を忘れる境地へと。

「あのね、オーウェンさん、ちょっと呑みすぎじゃないの」あるとき、私は完全に自分のことを棚上げにして(というのは、したたかに酔っていたのだから)説教モードに入った。「それに煙草も吸いすぎだ。なんて銘柄?……これは煙草工場で床に落ちた葉っぱを箒で集めてつくっているという噂の最下等の煙草じゃないの。せめてもうちょっと軽いのにしたら」
「あー」
「毎日毎日深酒して、煙草スパスパ吸って、体に悪いことこの上ないよ。あのね、隣のロックの街で俺が行けつつけだったバーのマスターたちも、やっぱり同じように自分の店で呑んだくれて、一人は脳梗塞で倒れて、せっかく健康になって戻ってきたのに無精からリハビリにも通わず、相変わらず飲酒喫煙の日々を送るうちにもう廃人みたいになっちゃって、最後には風呂にも入らずホームレスみたいになって、結局介護施設へ入った。それが六十二、三でだよ。アパートには大量のペットボトルに尿を溜めていたって」
「うー」
「もう一人の方は、何日も店が開かず、電話にも出ないのを常連さんが心配して、家族もいないものだから、大家さんと警察立ち合いの下で中に入ってみると、とっくに亡くなっていたって。日記が残されて最後の頁には、『苦しい。二三歩、歩いただけで、息切れする』とか書かれていたとか。まだ六十二、三でだよ」
「うー、それは呑み屋の噂話だろう」
「そうだけど、亡くなったのは事実だから。店を開ける前にいつも焼き鳥屋で呑んで、自分の店ではいっつも右手に煙草、左手にジンのグラスというスタイルだったな。客よりもずっと呑んでたよ」
「大丈夫、俺は大丈夫」
「なんで? なんでそんなことを言えるの?」
「だって……まだ始めて二年だよ。その人たちは長かったんだろう」
「三十年ぐらいやって来たのかな。そういう生活を三十年も続けてきたことになるか。なるほど、酒場のオヤジ六十歳限界説というのは、そういうことか」
「ほらな、だから俺は大丈夫、大丈夫」
 何が大丈夫なものか。しかし、酔った上で酔っ払いに説教する私は、いつしか酔っ払いたちから遠ざけられるようになってしまったし、そうこうするうちに、世界的なパンデミックが発生し、自ずと足は呑み屋から離れていったのである。話は、ホアン君が「ぼくは、マスター、ワクチンで亡くなったとは考えていませんから」とキッパリ言ったところまで戻る。
「まあ、そうなんだろうなあ……でも、こればっかりはわからないから。結局はこちら側としては、思う、思わないということだから。ところで、マスターはいくつだったけ?」
「享年六十四です」
「難しい言葉知ってるねえ。……って、結局、酒場のオヤジ六十歳限界説どおりじゃん……はあ、早いなあ」
 好きなだけ呑んで、吸って、哲学書を読んで、大好きなジャズのレコードコレクションに囲まれて、それで幸せな人生だったと言えるのだろうか(「本望だったろう」などと月並みなセリフでなんとか了解して、収まりをつけようとする声が聞こえてくるような気がする)。それとも、煙草と酒と本とレコードしか楽しみのない寂しい生涯だったのか。もちろん、こんな問題の設定の仕方は間違っている。「大丈夫、俺は大丈夫」という言葉が甦ってくる。そのときばかりはニコニコ顔ではなく、ふっと我に返るようだった。忘我から我へと連れ戻される。しかし、いくら我に返ったところで、「大丈夫、俺は大丈夫」という以上に自己欺瞞の言葉もないだろう。なぜ、どのようにして「俺は大丈夫」という自己認識が成立して、一方でそれは欺瞞だという他者認識が成立するのだろうか。
 残された時間は有限で、砂時計の着色された砂が残り少なくなればいっそう速やかに落ちてゆくように、あっという間に尽きようとしているのに、大丈夫、ずっと当たり前に日々は過ぎてゆくと思っている。突然、張り裂けるような痛みを胸に感じて、そこを抑えながら、我に返る。でも、遅すぎる。
「大丈夫じゃない、俺はちっとも大丈夫じゃない……」そっと呟いてみる。
「は、何か仰いましたか?」
「いや、ごちそうさま、〆めてください」
「どうもありがとうございました。また来てくださいね」
「じゃあ、いずれまた」
 シラフで哲学書を読むような日々が、本当に私にも来るものかわからないけれど、もう酒は止めにしよう、そんなことを思った。もちろん、思うだけなら、誰にでもできることである。

(了)

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