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【連作】無為のひと⑦去る者は日々に疎し、なのだ

 私たちがひさしぶりに会うマスターは、控え目に言うと清潔とは言い難い服装で無精髭も見苦しく、相変わらず洗濯も入浴していないのか饐えた臭いが漂ってきたけれど、どういうわけか生気を取り戻し瞳に輝きが戻っていた。

 その昔、まだ炭火で焼き鳥を炙っていた頃、バーに改装する前の串打ち《アルバトロス》でアルバイトしていたというシンさんが独立した昭和風のもつ焼き屋《信天翁あほうどり》が、私たちの新しい行きつけとなっていた。そこにひょっこりとマスター、というか元マスターが、「おう」とか言いながら暖簾をくぐって現れたのである、少しばかり照れくさそうに。ハニカミというのは、とても人間的な、もしかしたらヒトに特有の感情なのかもしれないから、正直我々一同はホッと胸を撫で下ろしたものである。

 店が潰れてから何ヶ月ぶりのことか、一体その間どこで何をしていたのかというのは、別に謎でもなんでもなく、どうせアパートで何もせずTVでも観ていたのであろう。

「マスター、久しぶり!」「元気?」「お帰り!(というのは、酒場へという意味だろう)」口々に声を掛けるのは、みんな《アルバトロス》が閉まって行き場を失ったわけでなく、実のところその前にさっさと見限ったけれど、元はといえば常連だった連中、つまりは私たちである。

 演歌などの流れるもつ焼き屋のコの字のカウンターで、マスターはなんだか退院祝いでもあるかのように自ずと古い客たち囲まれたが、それには構わず隅の席にいた倉木をきっと見据えて「お前、妹に電話したんだって?」いきなり尋ねたものだ。

「うん、まあ……」大人しく升で日本酒を啜っていた倉木は、伏し目がちに応えた。

 固唾を呑むと言えば大袈裟かもしれないが、感謝するのか、それとも余計なことしやがってと怒り出すのか、以前の性格を考えれば後者にちがいなかったけれど、もう人の変わったマスターの反応が読めなかった。それは倉木も同じだったろう。それが唐突にニッコリと好々爺のように(ようにではなく、ひょっとしたら、もはや好々爺然として)相好を崩したのである。

 急に老け込んで見えたのは、久しぶりに会ったということに加えて、《アルバトロス》よりもずっと明るい照明の下だったこと、そして入れ歯をしていないことが原因だった。長年の不摂生のために上下の歯がすっかり抜け落ちて入れ歯をしていたのを、何ゆえその夜、外して来たのかはわからぬが、皺ばんだ口元がえらく老け込んで見える、いやはっきりと老け込んでいる。これでもかつては少なくからぬ女たちに愛された色男であったものだが。

 こうして、マスターはもはやマスターではなくなり、私たちの呑み仲間になったのだが、未だにマスターと呼ばれていた。第一にそれが定着していたし、第二に本名を知らない者も少なくなかったし、さらに第三にはかつて知っていてもそれを思い出せない者が多かったからである。

 倉木がマスターの妹さんに電話した経緯などが、ぼちぼち私たちにも噂話として伝わってきた。彼女はただちに上京して、アドレナリン全開で不肖の兄のゴミ部屋を片付け・掃除し、あちこちにこさえた借金まで精算して回り、弁護士に相談した上で、渋る兄を病院まで引っ張ってゆき診断書を貰い、生活保護の手続きを完了した。そこまでした上で、今後一切関わらないとまで宣言して慌ただしく帰郷していったという。つまり、完全に縁を切ったわけである。いや、実にバイタリティ溢れる人だ、あのマスターと血の繋がりがあるとも思えない、と私たちは嘆息した。

 それにしても、借金を完済し(てもらい)、生活保護で現金収入を得、精神的に安定したせいなのか、マスターも肩の荷が下りて、無表情でどんよりとしていたのが、なんだか血の気が戻り福々してきた(また入れ歯も入れるようになったせいかも)。口さがないのが、我々の税金でのうのうと生活しやがってなどと陰口を叩いたりもしたが、どうせ払っているのは消費税以外には酒税と煙草税ぐらいでしかないような輩である。

 今からその頃を振り返ると、マスターの病状について私たちは正直よく知らなかったし、訊いても答えないこともあり、これからも変わりなく酒浸りの日々が続くのかと勝手に思い込んでいたわけだ。医者でもないし、どこかで聞き齧ったような半端な知識と自身の体験から得た僅かばかりの知恵しかないくせに。いずれにせよ、人はそう簡単にくたばるもんでもないと高を括っていても、いざ人の死に触れると、人間の存在なんて果敢はかないもんだなとしんみりするような私たちではないか。

 しばらくすると、倉木の姿を見る機会がめっきり減った。《アルバトロス》には毎晩のように顔を出していたのに、《信天翁》には週に一度か、二度、仕事帰りにシャワーも浴びずに作業服のままふらりと立ち寄り、軽く呑んで気がつくとすっと消えている。以前に比べると、ずいぶんきれいな呑み方である。「おい。もう一軒行かないか?」と誘っても、「明日が早いから」とつれない。

 たしかに元々愛想のない方であったが、ちょっとスカしているような。混み合った狭い店内で誰とも打ち解けず、乱れることもなく、決まって升酒を二、三杯。
「あれ? お前、煙草止めた?」
 ふと気づいて訊いてみた。かつては灰皿に山盛りになった吸い殻を前にして、さらに煙草に火をつけるチェーンスモーカーだったものだが。
「もうとっくに止めましたよ、前回値上がりしたときに。又、値上がりするらしいですね」
 喫煙の先輩に対して、なんだかムカつくような言いぐさではないか。

 一方、マスターの方もどんどん口数が少なくなってきた。背中を丸め、混み合った店の中でやはり周囲からポツンと孤立したかのように、いつの間にまた輝きを失った濁った目をして杯にじっと見入っている。つい先日までニコニコしていたような気がするのに、話しかけてもはかばかしい返事が返ってこないものだから、こちらとしては、まあ放置しておくことになる。そうすると、肴にも手をつけず、いつまでも辛気臭い様子で酒を嘗めている。またしても、あの「んーっ」という、時には尻上がりだったり、下がりだったりする呻き声を発するようになる。それは独り言でもあり、また孤独な対話のようでもあった。最初のうちはそばにいた者はびっくりするけれど、すぐに慣れてしまうと、やはりそのまま放置しておくこととなる。

 そんなとき、倉木が冷めた目で観察していることがあった。別に眉を顰めたり、眉間に皺を寄せたりしているわけでもないのに、どこか非難がましい。それがこちらの感情を逆撫でするというか。既にしてその時には、私たちと倉木の間には越えがたい溝ができていたのだろう。

 私たちにとって日常のルーチンが確固としたものであるというのが、実は幻想に過ぎないということを頭ではわかっていたとしても、明日も太陽が昇ることを疑う者はいないように、このルーチンが突如として崩れ去るとはなかなか考えられぬことだ。明日間違いなく太陽が昇ったとしても、それを拝む自身の存在の方が危ういとは考えられない。しかし、古い店が仕舞うということは新しい店が開店するということであり、時は流れ季節は巡り(なんだか昭和歌謡みたいだが)、呑み屋の常連の顔ぶれも少しずつ変化してゆくことになる。倉木の姿を見なくなってもはや随分久しくなるし、いつの間にかマスターも現れなくなったのに、それでも私たちは日常のルーチンは確固たるものだとどこかで信じているのである。

 とうとうマスターのことはたまに噂話に上るぐらいになった。「どうもあの人は、田舎に帰ったらしい」「それで老母を介護してるってか?」「いや、それがどうもお母さんに介護されてるらしい」そんな笑い話もあった。どうやら、また入院していて、今度こそ危ないらしいとまことしやかに語る者もいたが、今から思えばそれは噂ではなく、推測ですらなく、実のところ単なる妄想であった。出処不明の死亡説が流れたこともあった。こうして、もはや誰もその名を口に出さなくなったとき、私たちはマスターのことを、ついで倉木のことも忘れたのである。酒呑みというのは、先ず忘却に関しては特別な才能を持っている、アルコール漬けになって萎縮した脳は何事をも長くはとどめ置く能わざるものであるのだから。そんなわけで、ずいぶん久しぶりに倉木がふらっと《信天翁》に入ってきたとき、最初誰だか気づかず、てっきり一見の客かと思っていたぐらいなのだった。繰り返すが、それはあちらの印象ががらりと変わったせいではなく、過度な飲酒によりダメージを受けた私たちの脳のせいであると思われる。

 退院直後のマスターのように白い顔をして、体重も落ちて頬のあたりがすっきりしている。瓶ビールをコップに並々と注いで、我々に向かって黙って捧げてみせたが、それはあたかも献杯するかのようだった。以下は、このときに倉木が話したことであるが、さて私たちの衰えた頭脳でどれほど正確に再現できることやら。

(了)

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