こるねブックス

鹿沼のスキマ。アナキズム。青年劇画。砂目石版。

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最近の記事

鹿沼町花街小史・戦時下の芸妓たち(前編)

 1931(昭和6)年9月の柳条湖事件を発端とする満州事変、次いで37(昭和12)年7月から始まった日中戦争、さらに41(昭和16)年12月にアメリカと開戦して以降のアジア太平洋戦争が日本のポツダム宣言受諾によって終結するまでの十五年戦争下において、国民は様々な形で戦争に巻き込まれていった。多くの成年男性が召集され戦場に送り出され、また不足する労働力を補うために女性や学生、子どもたちまでが動員された。総力戦体制の下、あらゆる「人的資源及物的資源」が、戦争目的完遂のために統制

    • 敗戦から復興まで~芸妓たちの民主化(栃木県)~

       本章では、昭和20年8月15日に敗戦を迎えた後、GHQによる五大改革指令から日本国憲法制定に至る戦後の民主化政策や、その裏側で大きな変容を遂げた買売春政策、そして「飲食営業緊急措置令」等の緊急的な経済政策が複雑に絡み合いながら、栃木県内の花街やそこで営業する芸妓たちにどのような影響を与え変化を促したのか見ていきたい。 ●緊急経済対策下の芸妓たち  昭和20年8月10日、日本は連合国のポツダム宣言を受諾し第二次世界大戦は終結した。「国家総動員法」が廃止され、国策遂行の大義

      • 芸妓と競輪

         ここに1枚の写真がある。戦後間もない頃、鹿沼市内の美容院(髪結)の軒先で撮影されたと伝わるそのスナップには4人の女性が写っている。奥で雑談する3名は鹿沼の芸妓、縁側に座る女性は女子競輪選手(氏名不詳)だという。彼女たちの打ち解けた姿からは、芸妓と女子競輪選手に親密な交流があったことも想像できる。  新時代の娯楽である競輪と、伝統の世界に生きる芸妓。一見してかけ離れた存在である両者の間に生じた接点が、終戦後の混乱がようやく収束に向かい高度成長への萌芽を待つこの時代にどのように

        • 二つの『鹿沼音頭』

          1.芸妓組合『鹿沼小唄』『鹿沼音頭』を完成                          1937(昭和12)年5月、鹿沼町芸妓置屋組合では、宿願であった『鹿沼小唄』と『鹿沼音頭』を完成させた。両曲は共に作詞は江崎小秋、作曲は山崎裕康、振付は竹島肇による(※1)。 鹿沼小唄 (1)鹿沼来たならヨー ホホホイ   日帰りやおよし   帰ろ帰ろとて 帰しやせぬ  ネエ あきらめなさいと  恋の夜ざくら 袖を引く (2)唄の石橋町ヨー ホホホイ   舞妓のゆきき  襟

        鹿沼町花街小史・戦時下の芸妓たち(前編)

          鹿沼町遊廓小史

           上村行彰『日本遊里史』(1929年、春陽堂)の巻末には、日本全国539箇所の遊廓が一覧化されている。言ってみればこの鹿沼町(五軒町)遊廓の物語は539分の1の、実質40年にも満たないあらましを書きとどめた覚書に過ぎない。吉原や島原等の大遊廓に比すれば、地方の一小遊廓について残された資料の数は決して多くはなく、時代の証言者たる方々の多くは鬼籍に入っている。中心市街地整備を経た現地においては当時の名残を探すこともまた、難しい。  時間の流れは不可逆であり暴力的でさえあるが、悲し

          鹿沼町遊廓小史