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鹿沼町遊廓小史

 上村行彰『日本遊里史』(1929年、春陽堂)の巻末には、日本全国539箇所の遊廓が一覧化されている。言ってみればこの鹿沼町(五軒町)遊廓の物語は539分の1の、実質40年にも満たないあらましを書きとどめた覚書に過ぎない。吉原や島原等の大遊廓に比すれば、地方の一小遊廓について残された資料の数は決して多くはなく、時代の証言者たる方々の多くは鬼籍に入っている。中心市街地整備を経た現地においては当時の名残を探すこともまた、難しい。
 時間の流れは不可逆であり暴力的でさえあるが、悲しみや苦しみを浄化し治癒する力も有している。ただ、SNS等に顕著な絶えず「今」が更新され続ける状況を目にすれば、現代ほど「過去」が顧みられず、「歴史」が軽視されている時代はないような気がしている。歴史の地層を掘り進め、現代がその厚い層の上に成立していることに絶えず立ち返らなくてはならない。社会全体の規範や意識が異なる過去から逆照射することで、初めて私たちは自分たちが生きる現代に対して批判的な視野を得、また希望的な未来を描くことができるのではないか。遊廓史をコロナ禍の今に問う意義があるとすれば其処だ。
 前置きが長くなった。歴史から零れ落ちる事どもを掬い上げ後の世に託すための一助となれば幸甚である。

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1.鹿沼宿から鹿沼町へ 公娼制度の確立を背景に

 タイトル写真をご覧いただきたい。宵闇に浮かび上がる朱色の鳥居と小さな社。栃木県鹿沼市下田町2丁目にある椿森稲荷神社である。同社敷地内には比較的新しい鳥居と社殿の他に、「遷座記念碑」が建っている。碑は、元々、中田町・菊池平内の屋敷に1867(慶応3)年に創建された稲荷神社が、現在地に遊廓ができた際に移設されたことを記念して建立されたものである。碑の裏側(上写真)には移設の際の寄付者名が列記されているが、その中に「金二十円 各楼内働一同 燈籠 見番 手洗石 藝妓 中」とあるのが確認できる。石碑はこの地に遊廓があったことを知る縁でもあるのだ。
 鹿沼にも存在した不夜城、幻の遊廓「五軒町」を探索する旅はこの石碑を出発地として始まるが、時計の針は一端遊廓ができた明治よりさらに前まで戻さなければならない。 

 鹿沼における遊廓の成立については、江戸時代以来の宿場町から商工業都市への発達過程という都市形成史と、国内における近代公娼制度の確立という法制史の両面から捉えていく必要がある。
 まず、前者についてだが、鹿沼宿は、江戸時代前期に日光道中壬生通り(喜沢から壬生・鹿沼を通り今市に至る)に成立した。日光への参詣路として古くから利用されていた壬生通りは江戸時代に入り将軍の日光社参の際のルートとして、より重要視されるに至った。また宿は日光例幣使道にも位置したことから、江戸時代中・後期に掛けて隆盛を誇ることになる。宿場には給仕の他に売春行為を行う飯盛女(宿場女郎)を置く旅籠もあり、鹿沼宿にも存在したであろう同様の旅籠が、近代以降の遊廓成立の淵源になったことが考えられる。
 後者の公娼制度についてであるが、そもそも「公娼制度」とは読んで字の如く、国家などの公的機関が売春及びその集団営業(集娼)を許可することを言う。そしてその許可地を「遊廓」といった。江戸時代には新吉原(江戸)や島原(京都)のような遊女屋を一箇所に集めた幕府公認の遊廓があったが、岡場所や飯盛女など非公認の売春も広く行われ、比較的緩やかな管理体制の下にあった。集娼が殖産政策や公衆衛生と深く結びついた制度として確立を見るのは明治時代になってからのことである。1872(明治5)年10月、政府は「芸娼妓解放令」(太政官布告第二九五号)を発し、年季奉公の名目で行われてきた人身売買を禁止したが、発令の背後には、世界的な人身売買や奴隷制度撤廃の潮流の強まりがあった。さらに翌年東京府では「貸座敷渡世規則」「娼妓規則」が布達され、以後、貸座敷の統制や徴税は地方に委任され各府県の警察の管理下に置かれることとなった。栃木県も遅れなく「娼妓芸妓渡世規則」を発している。ここに至り、抱え主が金銭で購入した婦女に売春を強制する営業行為が否定され、遊女は自らの意思で売春を行う「娼妓」に、遊女屋は行為の場所を有償で提供する「貸座敷」と改められた。しかしそれらは建て前でしかなく、多くの娼妓たちが自ら負った前借金を完済する道は遠く、娼妓の取り分は楼主の半分以下という実質的な人身売買が継続されたに等しかった。併せて同年の「娼妓黴毒検査法」(内務省令達乙第四五号)により貸座敷指定地における検梅(性病検査)を制度化し公衆衛生を徹底することで近代国家に「相応しい」公娼制度の確立を急いだ。
 小野沢あかね氏は、近代遊廓を発生原因別に次のように分類している。(『性差の日本史図録』208頁)①近世の遊廓地②近世から飯盛女を置いた宿場町③居留地④近代以降の産業発展交通要衝地⑤軍隊駐屯地⑥植民地都市。鹿沼の場合は②に該当するであろう。ただし、街道沿いに散在する飯盛女を置いた旅籠が明治維新後に貸座敷に移行することはあったとしても、まだそれらがある意図を以て限定的な一つの場所に集められた「遊廓」を形成するには至っていない。

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 鹿沼では、1873(明治6)年の大区小区制を経て、1889(明治22)年の町村制施行により市域が鹿沼町をはじめ一町一三村に再編成された。さらに、1890年に日光線宇都宮〜今市間が開通し鹿沼駅(現JR)が開業。ほぼ同じ時期に下野麻紡織工場(帝国繊維鹿沼工場の前身)が操業を開始し、明治24年に駅から府中橋を経て町中心部に至る新道も整備された。さらに鹿沼銀行や鹿沼商業銀行が設立するなど、商工業都市としての発展が著しい時期に差し掛かっていた。鹿沼町の中心部は従来、旅館業や各種商店、サービス業などの様々な需要に答える業種によって形成されていたが、これら時代の動きに応じてその機能が強化されていった。明治期における鹿沼町内の主な通りに面する商家等の情報は『栃木県営業便覧』(1907(明治40)年。下図)によってある程度得ることが出来る。石橋町から下材木町に掛けて商工業者に混在し立ち並ぶ仕出し料理屋や旅館の他に、後に遊廓を形成するに至る小林・柏木・新藤等の楼(貸座敷)や芸妓置屋が確認できるが、商業や工場関係者など町内外の多くの人間が往来する中で、同町における歓楽街的な性格が増幅していったと考えられる。

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 さて、明治政府においては幕末に欧米諸国と締結した不平等条約の改正に向けた欧化政策がとられていたが、栃木県内においても市街地における貸座敷営業の実態が問題視され、対外的な面で悪影響があるという理由から、貸座敷をまとめて町の中心部から離れた場所に移転させる動きが生じた。

獣行醜業者をして町村の片隅に区域を定め其の区域内に於てのみ営業を為さしむるは実に文明の美挙なり、(略)我県内は到る処正業者と醜業者とを混合して営業を為さしむるは文明国として自負する能はざるのみならず他日条約実施内地雑居するに至らは大ひに外国人の嘲笑を受くるを免かれさる事ならす
『下野新聞』(明治29年12月26日)

 1898(明治31)年、県会(県議会に相当)は、知事に対して貸座敷の遊廓への移転を求める内容の「遊廓問題ノ儀ニ付県会建議書」を提出したが、これに対して発せられたのが、1899(明治32)年9月の「遊廓設置規程」(栃木県令第六〇号)であった。その第一条において「貸座敷及引手茶屋営業ハ遊廓区域内ニ限ル」とし、第二条では、県内各町の遊廓を設置する具体的な地域を定めたが、鹿沼町においてはそれが「上都賀郡鹿沼町大字西鹿沼字一丁田」とされた。ところが本規程に対しては、県会のみならず『下野新聞』紙上や廃娼運動を展開する足利友愛義団等からも非難の声が上がった。貸座敷の遊廓移転のみならず、元々貸座敷さえなかった地域にも新たに遊廓を増設するという逆行性(第二条)が問題視されたのである。鹿沼町においては、1900(明治33)年3月に設置規程の指定地(西鹿沼)は小学校に近接するとして地元有力者が鹿沼警察署へ据置請願を提出するなど、遊廓移転の動きがたちまち鈍化する事態となった。同様に、県内の他の地域でも遊廓の新設や移転は順調に進まなかったようである。
 さらに、同年10月には、「娼妓取締規則」(内務省令第四四号)が国によって発令された。これは、各地方で不統一だった娼妓取締のルールを改めて国が総括する規定として出されたもので、娼妓の自由廃業について明文化されたことを含め、日本の公娼制度を画することとなった。主な内容としては、娼妓の年齢を従来の16歳以上から18歳以上とし(第一条)、娼妓名簿への登録制としたこと(第二条)。また、居住の制限(第七条)、検梅実施(第九条)が明確に制度化されたことが挙げられる。さらに第五条で、先にも触れた通り「自由廃業」の手続きが明文化され、娼妓が自らの意思で稼業を辞めることを雇い主は前借金を理由に拒んではならないとされた。本規則の制定後約2年間で1万人以上の娼妓が廃業したという(関口すみ子『近代日本公娼制の政治過程』71頁)。この間の鹿沼の状況について概観してみよう。

自由廃業の声は秋のそよ風と共に各地に吹き渉り貸座敷の寂寥を極めつつあるが中に鹿沼町貸座敷の如きは一掃に淋しさを感じ楼主等は何れも青息吐息の姿にて中には今の内正業に就かんこそ得策ならめ抔とて親戚と協議中なるもありそれに引換へ娼妓等は此機に乗じて馴染客と相談づくにて親許より前借金切捨の談判に及び楼主がこれに応ぜざれば自暴酒を煽って腐貞寝する抔手も附けられぬ我儘を極めてゐるようになりしとは…
『下野新聞』(明治33年10月11日)

とあり、鹿沼にも自由廃業の流行が波及していたことが窺える。『栃木県警察統計表』を見ても明治32年から33年末に掛けて娼妓数の減少が目立ち、貸座敷の数も明治39年までには、齋藤楼と東楼が廃業し、最終的に5軒まで淘汰されていったことがわかる(下エクセルファイル参照)。


娼妓と楼主の立場が逆転するかに見えた自由廃業の流れもしかし、1902(明治35)年、大審院において前借金(娼妓が負う債務)は有効とする判決が下されて以降大きく後退することとなる。娼妓を辞めても借金は帳消しにされず苦界に舞い戻る女性も多くあったという。

2.鹿沼町遊廓「五軒町」の成立

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 さて、県の「遊廓設置規程」において設置期限とされた1904(明治37)年を経過してもなお、鹿沼町においては遊廓設置に至っていない。下田町東側の田圃地に遊廓が整備されたのは、さらに4年後の1908(明治41)年3月末のことであった。この年、ほぼ同時期に県内の各地で遊廓が移転完了または開業(廓開き)している。
・1月 石橋
・2月 福居(足利)・足尾
・3月 烏山・鹿沼・大田原
日清戦争から日露戦争に至るこの間、鹿沼町においては1892(明治25)年には人口が1万人を越え、それに伴う行政事務の増大や町税未納、ゴミ処理など都市化に由来する様々な問題に直面していたが、1904(明治37)年3月に猪野春吉が町長に就任し町政の刷新に臨むこととなった。遊廓設置がここまで遅れた理由として、土地の選定に紆余曲折があったことや、廃娼団体等による圧力の他に、このような町政を巡る大きな動きが少なからぬ影響を与えていたと考えられる。

 ともあれ、先述の通り1908(明治41)年3月31日の時限を以て、石橋町の竹澤・清水・柏木・小林、下材木町の新藤の5楼が移転を完了し、ここに鹿沼町遊廓が誕生した。(上は鹿沼町遊廓の移転状況を伝える記事『下野新聞』(明治41年1月19日付。栃木県図書館蔵))
 さて、遊廓整備に関わる土地の買収や、造成・建築工事等の資金は一体どのように賄われたのだろうか。当然のことながら町からの補助的な支出があった形跡はない(鹿沼市史〈近現代〉・別冊『鹿沼町歳入歳出決算書』)。柏木楼の主人が鹿沼初の国会議員である高橋元四郎であったこと(遊廓移転期には妻に経営を譲渡)や、清水楼の主人が昭和10~14年に掛けて鹿沼町長を務めた清水一郎であることから分かるように、貸座敷(楼)の経営者は概して土地の有力者であり、その潤沢な資金を以て整備費用に充てることができたと考えられる。また、このような富裕な楼主に向けられたであろう町民たちの忌避と畏怖が入り混じった眼差しはそのまま、公許でありながら疎外されるという遊廓の有する両義性に繋がるものだった。
 遊廓が造成されたのは田町通りからは150m以上離れた小字名「後宿」という場所で、中世においては鹿沼城主であった壬生氏の城下町として黒川西岸に栄えたが、近世以降町の中心部が西へ移動したことにより、明治期には茶畑が広がる辺鄙な土地柄という感を強めていた。遊廓への進入路は、田町通りの古物商・冨士川政十郎(現在そば店)方の南側から当時の下横町通りを東へ延伸する形で新設された。ここで改めて「遊廓」の辞書的な意味を確認しておくと、「公許の遊女屋を集め、周囲を塀や堀などで囲った区画のこと」(Wikipedia「遊廓」)とあり、方形の区画に正面入口である大門から真っ直ぐに伸びた幅広い大門通りとそれに直行する横道という新吉原に端を発する形態が近代以降に新設される遊廓においても規範となった。大門や、「規程」で定められた五間幅(約9m)であったであろう大門通り、そして塀で囲まれた100m四方の方形を為す鹿沼町遊廓は新吉原マナーに忠実な、さながらそのミニチュア版といった様相を呈していたのかもしれない。さらに遊廓に付き物と言えば楼主や遊女から信仰を集めた稲荷であるが、冒頭で触れた南東隅の椿森稲荷の他に北東隅には大鳥神社(現存せず)が建てられた。また、廓の東側に沿って流れていた木島用水(現存。下写真)は、図らずしも娼妓の逃亡を抑制する効果を有したのではないだろうか。廓内には楼の他に台屋(仕出し)や巡査の詰所等があったが、それら配置の詳細については、柳田芳男『かぬま 郷土史散歩』(以下『散歩』と略)に詳しいため興味のある方は是非そちらを参照されたい。

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 また、遊廓の有り様を伝えるビジュアルな資料としては、大正期の鹿沼町を、現JR駅辺から鳥瞰的に描いた『鹿沼町実景』(1920(大正9)年、松井天山作)がある。そこには黒川の両岸に立ち並ぶ帝国製麻や日本麻糸の工場や、鳥居跡から分岐した内町通りと田町通り沿いに軒を連ねる商工業者等多くの建築物が描かれており、絵図の特性上、幾分デフォルメされながらも当時の町の繁栄を十分に窺い知ることができる。遊廓については、大門や5軒の楼、加えて鳥居が立ち並ぶ稲荷神社までもが確認できる。

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 絵図の描写は、町における遊廓の位置関係を広域的に把握することを可能にしているが、田圃地帯に忽然と現れ、夜更けまで煌々とした灯りの絶えない遊廓は、人々に如何なる感情を掻き立てたであろうか。火災防止のため廓内には早くから電気が通っていたと考えられるが、現在も当地に並び立つ「新地」のプレート表示を有する電柱は、絵図にも描かれた廓内の電柱を引き継ぐものであろうか。だとすれば、これら「新地」電柱を地図上に結び外周となすことで当時の遊廓エリアを大まかにも推定することが可能かもしれない。

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 乃ち鹿沼町遊廓は、新しく造成された土地の意で一般的に遊廓のことを指す「新地」と呼ばれたが、いつしか小字「五軒町」を名乗るようになる。(下:「栃木県上都賀郡鹿沼町勢一覧」(昭和6年)鹿沼町全図)5軒の楼があったことに由来するこの町名の決定が、いつどのような経緯を経てなされたのかは判然としていないが、当時の鹿沼の各町が町村制における位置付けのない「町ごとのまとまりを維持した住民組織」(『鹿沼市史・近現代』176頁)形態として存在していたことを考え合わせると、廓内において、楼を中心とした自治的なコミュニティが比較的早い段階で形成されていったことが想像される。日本国内には同じ「五軒町」の名を有する地域が複数(那須塩原市・水戸市等)確認できるが、いずれも、創設当初において武家屋敷等の建物が集合したことが町名の由来となっている。鹿沼の「五軒町」においては、当時でさえ忌避の対象であった遊廓の存在を敢えて誇示するかの如く町名に冠したことに、その特異性が現れているのではないだろうか。遊廓が成立したことにより、原則的に女郎買いは五軒町、芸妓遊びは石橋町(花柳)という区別がなされたと思われるが、事実としては、五軒町の貸座敷に芸妓を揚げて遊ぶなど、双方に緩やかな通交があったらしい。

「栃木県上都賀郡鹿沼町勢一覧」(昭和6年)鹿沼町全図

3.「五軒町」遊廓の実態

 貸座敷は、登楼した男性客の住所・氏名・年齢・職業は元より 、人相や消費金額までを記録する「遊客名簿」の作成が義務付けられていた。遊客名簿を基礎資料とした横田冬彦氏の研究(『慰安婦問題を/から考える‐軍事性暴力と日常世界』所収)によれば、1910~20年代に掛けて都市部を中心に「大衆買春社会」とも言うべき状況が到来したという。大尽遊びであった女郎買いが一般大衆の月給の範囲で可能な日常行為となってきたことを示している。遊客名簿の現存が確認されていない鹿沼町遊廓の実態はどのようなものだったろうか。1914(大正3)年に始まった第一次世界大戦は、軍事品としての需要の増大から製麻工業が伸長し、地方都市・鹿沼においても好況を生んだ。時ならぬ好景気は労働者たちの懐具合をよくさせ、地方にも波及した買春の大衆化に拍車を掛けたことは想像に難くない。『散歩』(245頁)によれば遊廓が一番栄えたのは大正期、関東大震災前のことであったという。『全国遊廓案内』(日本遊覧社・昭和5年)によれば、鹿沼町遊廓の玉代(娼妓の揚代)は部屋代込で2円20銭とあり、同時期における大工の手間賃が2.5円(『物価の世相100年』・読売新聞社・1982年)であることから、「その日の稼ぎで遊びに行く」という感覚が理解し易いのかもしれない。下に当時の『下野新聞』に掲載された鹿沼町遊廓における主な事件事故の記事を一覧化したが、そこに登場する遊客の多くが職人や農業者などの大衆層であることが分かる。と同時に、遊廓における事件の多くが、第一次大戦の好況を経た後の昭和恐慌期さらに、満州事変から日中戦争に至る時期に集中していることから、不穏な時代状況をその背景に読み解くことができるかもしれない。


 対して、これら遊客の相手を務める娼妓たちの実態はどのようなものだったのだろうか。新吉原の娼妓・春駒こと森光子が自由廃業後に過去を綴った『光明に芽ぐむ日』(1926年)のような稀有な例はあるが、娼妓が自身の生業について語る事例は多くはない。こと地方の一小遊廓であった鹿沼町におけるそれらに関する記録は乏しく、遊客と遣手婆のやり取り等を聞き書きした『散歩』のわずかな記録が残るばかりだ。ここでは公的な記録を追ってみたい。関連規則やデータ類をまとめた『公娼と私娼』(内務省警保局・昭和6年)からは、県別における娼妓の実態を多少なりとも把握することができる。例えば栃木県における娼妓の休暇は月1日または無休とされ、過酷な労働実態が明らかであるが、利益配分や福利厚生の充実といった面では明治維新期に比べればギリギリの線で待遇改善がなされていたことも読み取れる。また、公娼制度の柱とも呼べる検梅(性病検査)についても触れておきたい。『栃木県警察史・上』(県警察史編さん委員会・1977年)によれば、「娼妓健康診断規則」(明治33年)によって毎週1回または臨時の性病検査が娼妓には課せられ、所轄警察署の健康診断書なしには稼業できないとされた。鹿沼町には、五軒町内に「鹿沼娼妓治療所」が設置され(『散歩』ではそれが台屋の二階だったと伝えている)、奈佐原と今市の遊廓も所管していた。事ほど左様に、娼妓たちの人権は無視されていたのだ。
 五軒町ではいつしか盆踊りが恒例行事となっていたが、夏の短夜に彼女たちは一時の安らぎを覚えることもあったのだろうか。

●鹿沼の盆踊  上都賀郡鹿沼町字五軒町の楼主等は不景気挽回策として同遊廓内の中央に旧盆十四日より三日間其の筋の許可を得て三間四面の櫓を設け毎夜午後八時より正十二時迄盆踊開催の処兎角雨天勝ちにて日延となり去る十三日夜最終の催しとして芸娼妓連の総踊を為したれば納涼旁々殆んど町内及近在より人出多く一時は意外の雑踏を極め警察署よりは内藤部長外巡査四五名出張して取締に従事し踊子は何れも花笠を被り男女想い想いに服装して手振面白く踊り狂いたるが十二時過ぎよりは芸妓一同及娼妓達も多数入り乱れて大仕掛の踊りとなり実に未曾有の盛況なりしと
『下野新聞』(明治44年8月16日)

4.公娼制度の臨界点 そして鹿沼町では

 1921(大正10)年、国際連盟において「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」が調印され、成年年齢は21歳以上とされた。日本も国際協調の波には抗し切れず「娼妓取締規則」の18歳以上という年齢規定は留保したまま1925(大正14)年に条約に批准、1927(昭和2)年には年齢留保も撤廃した。1930(昭和5)年には、国連の東洋婦女売買調査団が訪日し性売買に関する勧告を実施している。また、大正デモクラシーと相まって盛り上がりを見せていた廃娼運動は、「廓清会婦人矯風会連合」が各県への廃娼実施請願を開始するなどし、1930年~43年までに14県で廃娼が実施された(栃木県は含まれない)。さらに各地の遊廓では自由廃業や娼妓らによるストライキが続発するなど、公娼制度が大きく揺らぎ始めていた。帝国議会においても公娼制の制限や廃止に関する建議が相次ぎ、支持母体に貸座敷業者を含むこともあってか廃娼実施に及び腰だった政府においても、1933(昭和8)年、『取締規則』における娼妓の外出制限を撤廃するなど、公娼廃止に傾き始めていた。
 無論、公娼制度廃止の動きが売買春自体の後退を示すものではなく、内務省警保局の意図したところが「公認制度をやめるが、(略)黙認制度を採用するというものだった」(吉見義明『買春する帝国』)とあるように、娼妓を「酌婦」、貸座敷を「料理店」とするような対外的な看板のすげ替え、乃ち公娼の準私娼化に他ならなかった。「私娼」とは、娼妓の鑑札を有しない芸妓、酌婦、女給、ダンサー等が非合法的に売春を行うもので、私娼を抱える雇主は飲食店を正業とし、多くは黙認されていたが、特に関東大震災(1923年)以降は、カフェーやバー等での買春が、古めかしい遊廓に代わる新しい遊興として流行し始めていた。鹿沼町においても、昭和初期に掛けて私娼が台頭していたことが、秘密売春を行った酌婦の拘留や、料理店への科料を伝える『下野新聞』の記事からも窺える。黙認された私娼行為も性病予防等の観点から臨検によって取り締まることがあったのだ。そしてこれら私娼を抱える料理店やカフェー、バーが、鳥居跡町や下材木町、文化橋町など、五軒町(遊廓)や石橋町(花街)の外周部に所在することから、私娼エリアが公娼エリアの周囲に形成されるという一つの傾向が見えてくるだろう。しかし、政府の目指した公娼廃止の動きも戦争の激化により結局立ち消えとなった。
 1936(昭和12)年に日中戦争が勃発し、翌年の国家総動員法成立以降、国内における総力戦体制が築かれていく中、貸座敷遊客数及び娼妓や酌婦の数が減少に転じていく。栃木県においては、1940(昭和15)年から警察の指導によって歓楽街の自粛が始まり、カフェー等飲食店における華美な装飾の廃止や、芸妓や貸座敷の営業時間の短縮が実施されることとなった。1941(昭和16)年にアジア太平洋戦争に突入した以降は、料理店やカフェー、芸妓置屋等の工員宿舎や旅館への転換が進められていったが、鹿沼町においても、「若松」「梅月」等の料亭が工員宿舎に転換。同時に三味線を捨て工員に転業する芸妓もあったという(下は鹿沼町の芸妓が工員に転業したことを伝える記事『下野新聞』(昭和19年2月3日付。栃木県図書館蔵))。

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 1944(昭和19)年3月、国は「高級享楽停止に関する要綱」を出し、芸妓や待合等を「高級享楽」として停止したが、ここにおいても遊廓は廃止されなかった。性欲を満たすだけの享楽は、「低級」と見なされ軍需工場の労働者である「産業戦士」たちの労働効率を上げるための「慰安」として寧ろ奨励されていた。
 鹿沼町遊廓の衰退は、娼妓数の減少から察するに開戦以前から萌芽していたと考えられるが、私娼の増加や、享楽面の粛正、徴兵による若年層の流出等がこの傾向に拍車を掛けたことは間違いないであろう。鹿沼町遊廓は、「高級享楽停止要綱」が施行される前年(昭和18年)に遂に解体した。「慰安所」ではなく療養施設としての転換が決まったからである。

5.遊廓が消えた後で 戦後そして現代へ

 この間の動きを『散歩』及び『上都賀郡市医師会史』に依拠しながら追ってみたい。
 1943(昭和18)年鹿沼町は、遊廓内の5楼を28万円で強制的に買上げ、これを日本医療団(栃木県支部)が購入し改修。1944(昭和19)年9月26日に「鹿沼奨健寮」として開所した。日本医療団は、昭和17年に公布された国民医療法によって設立された団体であり、国内の医療機関の統合を図り、国民の健康増進のために必要な医療施設の整備を推進していた。療養施設である「奨健寮」は、主に既存の医療施設や学校・ホテル等の異業種施設を転換して整備された。県内においては、那須・大田原・今市・鹿沼の4箇所。今市では鹿沼と同じく遊廓が転換利用された。鹿沼奨健寮(小池重院長)は、日光の古河電気精銅所の長期療養者や、付近の軍需工場従業員の治療や療養を行うために整備されたが、設備や人員が整わず所期の成果を上げないまま敗戦を迎えたという。
 医療団の撤収後、1947(昭和22)年3月に奨健寮の一部へ県立鹿沼保健所が移転し、9月まで同地で業務を執り行っていた。同年4月に鹿沼町は、町会において町有林売却金の内30万円を海外引揚者用の住宅整備費に充てることを決定し、元遊廓内の小林・竹澤の2楼を買収。改修工事を経た後の9月に、引揚者・被戦災者専用のアパート「鹿苑荘」として開所した。60世帯220人を収容員数とした同アパートは、6畳間1室の1~3号棟から成っていた。
 翌1948(昭和23)年、市制施行され、鹿沼市が誕生。昭和24年度版『鹿沼市勢要覧』によれば、「鹿苑荘」の所在地が「下田町(南)」とされていることから、「五軒町」は戦後ほどなくして廃され、遊廓が出来る前の町名に復したと考えられる。同地はその後、昭和29年9月30日の鹿沼市告示第65号により、現在の町名、下田町2丁目となった。
 遊廓の解体後程なくして、その内外を区切っていた塀や大門は取り払われたであろう。さらに大門通りだった道路は遊廓を東へ突き抜ける形で延伸され、東小学校前を過ぎ黒川西岸に到達、1951(昭和26)年までには朝日橋を架すことになる(下:鹿沼市勢要覧・昭和26年版(鹿沼市街図))。

鹿沼市勢要覧・昭和26年版(鹿沼市街図)

 高度経済成長期に掛けて町なかへの集住が進む中、周辺の農地であった場所にも住宅が建ち並び始めた。かつて遊廓だった場所が外界との差異を消失し溶解していく過程は、1965(昭和40)年に鹿苑荘が老朽化により取り壊された跡地に鉄筋コンクリート5階建ての下田町改良住宅(市営アパート。下写真は建設中)が建設されるに及び一つの極点を迎えたといってよいだろう。

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昭和30~40年代に掛けての高度成長期を経たこの町は、やがて地方都市の宿命ともいえる中心市街地の空洞化という問題に直面する。モータリゼーションの進展や、大型小売店舗の進出による商業様態の変化、日吉台や晃望台等の住宅地整備による人口集中の分散など、総じて郊外化が進んだことが要因と考えられている。1993(平成5)年に策定された「中心市街地活性化計画」では、遊廓があった下田町2丁目を含む、11町が重点整備地区とされた。計画の一環として平成8年~19年度に実施された「下横町周辺土地区画整理事業」では、区画整理と併せて「古峯原宮通り」が整備された。これは、鹿沼の中心市街地と宇都宮市を結ぶ基幹道路として石橋町交差点から下横町の街路を経て朝日橋に至る区間を押し並べて20mに拡幅整備するもので、狭隘な下横町通りと幅広な旧大門通りという対比を均一化することで、遊廓という「場所」が有していた記憶の残滓を決定的に消し去るものであったのかもしれない。2009(平成21)年3月には、県道4号宇都宮鹿沼線(鹿沼街道)において、上野町から府中町までを直結するバイパスが開通。県都と鹿沼の中心市街地が東西にほぼ一直線に結ばれることとなり、交通の便はさらに向上した。
 これまでの都市形成の経緯を、遊廓側の視点に立ち展望するならば、廓の一部が広域的な都市計画の内に包含されていく過程が見えてこないだろうか。あるいは、石橋町交差点と宇都宮方面を直結するというアイデアは、遊廓が設置されなかったとしても生まれ得たものかもしれない。しかし、田町通りから遊廓の大門通りに至る取付け道路がやがて都市計画道路に吸収されていったという事実は、私たちの生活や生業と、歴史との不可分な関係性を考える上で、なにがしかの示唆を与えてくれるものと言えよう。


 こうして鹿沼町遊廓を巡る旅は終わりを告げ、私たちは再び「遷座記念碑」の地に帰ってきた。そこから眺める古峯原宮通りの往来に、紅燈の幻影をひと時、重ねてみることは果たして無駄な営みと言えるだろうか。

付記

公娼制度のその後についても、簡単に触れておきたい。1946(昭和21)年1月に、GHQによる公娼廃止に関する司令に基づき通達された「公娼制度廃止に関する件」によって、公娼制度は廃止された。その後「私娼取締並びに発生の防止及び保護対策」により「特殊飲食店」を指定し、いわゆる赤線の時代に突入していく。栃木県では宇都宮市の中河原や新地が赤線だったことが知られている。さらに10年後の1956(昭和31)年に売春防止法が制定。赤線の火は消え、現在に至る性風俗産業の形が整えられていった。

主な参考文献・webサイト

県史編さん委員会『栃木県史 資料編 近現代一・二』(栃木県、1977)/柳田芳男『かぬま郷土史散歩』(晃南印刷㈱印刷部、1991)/市史編さん委員会『鹿沼市史 資料編 近現代1』(鹿沼市、2000)/市史編さん委員会『鹿沼市史 地理編』(鹿沼市、2003)/福田純一『大正時代の鹿沼町の景観‐「上都賀郡鹿沼町実景」の分析を中心として‐』(市史編さん専門委員会『かぬま歴史と文化〈第9号〉』(鹿沼市、2004)所収)/市史編さん委員会『鹿沼市史叢書10・鹿沼の絵図・地図』(鹿沼市、2005)/上都賀郡市医師会史編集委員会編『上都賀郡医師会史‐上都賀郡市医事史‐』(社団法人上都賀郡市医師会、2006)/市史編さん委員会『鹿沼市史 通史編 近現代』(鹿沼市、2006)/渡邉貴明『鹿沼市旧市街の歴史的生活環境に関する研究』(2008)/下川耿史・林宏樹『遊廓をみる』(筑摩書房、2010)/日本遊覧社『全国遊廓案内』復刻版(カストリ書房、2014)/歴史学研究会・日本史研究会編『慰安婦問題を/から考える‐軍事性暴力と日常世界』(岩波書店、2014)/関口すみ子『近代日本公娼制の政治過程』(白澤社発、2016)/三橋順子『新宿「性なる街」の歴史地理』(朝日新聞出版、2018)/吉見義明『買春する帝国』(2019、岩波書店)/国立民俗博物館『性差の日本史』図録(博物館振興会、2020)/がりつうしん(https://garitune.hatenablog.jp/)

地図

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旧鹿沼商工会議所の写真(昭和20~30年代)。柳田芳男『かぬま郷土史散歩』の記述に拠れば、写真に見える花崗岩製の石柱は、遊廓の大門からリサイクルされたものと推測される。

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