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二つの『鹿沼音頭』


1.芸妓組合『鹿沼小唄』『鹿沼音頭』を完成                         

1937(昭和12)年5月、鹿沼町芸妓置屋組合では、宿願であった『鹿沼小唄』と『鹿沼音頭』を完成させた。両曲は共に作詞は江崎小秋、作曲は山崎裕康、振付は竹島肇による(※1)。

 鹿沼小唄

(1)鹿沼来たならヨー ホホホイ 
 日帰りやおよし 
 帰ろ帰ろとて 帰しやせぬ
 ネエ あきらめなさいと
 恋の夜ざくら 袖を引く

(2)唄の石橋町ヨー ホホホイ 
 舞妓のゆきき
 襟の白さに誘はれて
 ネエ ほんとにそうかと
 思ひ古賀志山の お月さま

(3)あれは時鐘ヨー ホホホイ 
 今宮さまが
 撞けば別れの 朝が来る
 ネエ 忘れちゃ駄目よと
 逢ふた皐月に 鹿沼土

(4)花の情にヨー ホホホイ
 しみじみ濡れて
 戻る黒川 府中橋
 ネエ いつまたくるのと
 後を追ふよに 呼ぶつばめ

『しもつけの唄』によれば「昭和五、六年ごろから十二、三年にかけては県内各地で盛んに「音頭」や「小唄」ができた時代」であり、鹿沼町の場合も、そのような流行に乗じたものであろう。これらの楽曲は、民謡調の曲に土地の風物を折り込んだ歌詞を載せた「新民謡」と呼ばれたジャンルに含まれるものであり、大正末から終戦後に掛けて全国的な流行を見せた(※2)。

そもそも民謡とは、古来、民衆の間で自然発生し伝承されてきた労働歌や子守唄などの歌謡のことであり、明治中期以降、文学者を中心としたインテリゲンチャ層に「発見」され、収集・保存活動が進められていった。明治維新以降、天皇を中心とする中央集権的な国家体制の確立に急いだ反動の一面が、ドイツ文学から受容した概念「郷土芸術」(Heimatkunst)への傾倒となって現れ、前田林外編『日本民謡全集』(1907(明治40)年)の刊行等、「民謡」への関心が高まる契機ともなった。1910(明治43)年に設立されたニッポノフォンにより次々と民謡がレコード化されたことや、東京における地方民謡の上演、さらに1924(大正13)年に開始されたラジオ放送の普及が一般大衆への民謡受容の拡大を決定的なものとした。ちなみに宇都宮市では同年2月20日にラジオの試験放送がされた(※3)。

そして大正後期以降、民謡詩人の野口雨情や彼に同調した作曲家の中山晋平らが中心となって興ったのが、各地における民謡の発掘や保存活動の成果を民謡的歌曲の創作に昇華させた「新民謡運動」である。レコードやラジオ放送などのメディア産業が急速な進展を遂げる過程で、商品価値を見出された新民謡は、大正後期から昭和初期に掛けての観光ブームの最中、地域振興の一手段として大量に生み出されていくこととなった。また、昭和8年7月にレコード発売された『東京音頭』の大ヒットを機に、昭和10年に掛けて『〇〇音頭』といった所謂「音頭もの」と呼ばれる曲が多数作り出されたが、各地方の創作民謡においては、小唄に替わって音頭が、または小唄と音頭がセットで制作(鹿沼町が該当)されるような状況が現出した(※4)。既述のとおり『鹿沼小唄/音頭』の完成は昭和12年のことであり、ビクターやコロムビア等のレコード会社が凌ぎを削った音頭ブームはすでに鎮静した時期に当たっている。

栃木県の新民謡

鹿沼町の芸妓たちは、同町の料理店・大澤楼でのあげ浚いや鹿沼座(鹿沼市上材木町にあった演劇場)での披露会を行った後、同年6月16日、宇都宮市の演芸場・宮枡座からのラジオ放送出演に臨むこととなった。番組名は「栃木の夕(ゆふべ)」(東京放送局)であり、松村光磨(みつまろ)県知事の挨拶に始まり、県内各地の郷土色豊かな演芸を実演する内容であった。『鹿沼音頭』の他、各町の芸妓たちが唄う『小山音頭』、『栃木躍進音頭』、『宮音頭』、『水の黒羽』等の創作民謡が全国に向けて放送された(※5)。
同年7月、盧溝橋事件に端を発する日中戦争が勃発する。国内は本格的な戦時体制に突入し、芸妓たちにとっても苦難の時代が訪れる。ラジオ放送等を通じた新民謡のお披露目こそが、鹿沼町芸妓にとって戦前最後の華だったのではないだろうか。

鹿沼町内の料理店・大澤楼で行われた「鹿沼小唄」「鹿沼音頭」の上げざらいか(昭和12年頃)

2.忘却の過程                                      さて、これらの新民謡の内には、時代の推移と共に忘れ去られていくものもあれば、地域の人々によって長く歌い継がれていくものもあった。新民謡の継承については、レコード製作や盆踊り大会による定着、保存会による活動、観光地としての盛衰など、複合的な要素が関連していよう。 
日光や鬼怒川温泉等の大観光地に比すれば、鹿沼において観光客誘致や地域振興策として新民謡の活用や継承がそれほど重要視されなかったことは容易に想像される。現代において『鹿沼小唄/鹿沼音頭』が人の口の端に上ることはなく、その存在を知る者さえ僅少である。それでは、いつ頃まで両曲が唄い継がれ、またどのような過程を経て忘却されていったのだろうか。例えば『下野新聞』(昭和24年10月5日付)に、次のような記事がある。

あの街この街・鹿沼編(下材木町)花柳界と食道楽の街
石橋町から南へ下る旧例幣使街道がこの町である、別に材木屋が多いわけではなく町名の由来は詳らかでない、下材木というのも上材木町に対する名と見られる、表通りは旧例幣使街道の他町と同様これといって商売上の特徴は見られないただ裏町は「花の石橋」に対し「女の下材木」と鹿沼小唄に歌われるだけあって全くの花柳街である(後略) 

『鹿沼小唄』が戦後の混乱期を経て復活の途上にあった「花柳街」の存在と共に認識されていたことが分かる。しかし昭和38年に芸者になった女性の方へ聞き取りをしたところ、『鹿沼小唄』『鹿沼音頭』を「知らない」とのことだった。戦後昭和20年代から昭和30年代に掛けて、急激ともいえる忘却の過程があったと推測される。それはちょうど、市制施行により鹿沼市が誕生(1948(昭和23)年)し、また国内経済においては朝鮮戦争の特需を経て高度成長を迎える時期と重なっている。

昭和26年、市制施行3周年を記念して鹿沼市によって市歌と共に新たな『鹿沼音頭』(作詩:岩崎千絵子、作曲:堀内敬三)が制作された(以後区別するため、芸者たちの『鹿沼音頭』を『音頭(芸)』、鹿沼市のものを『音頭(市)』と表記する)。『音頭(芸)』と『音頭(市)』の歌詞には共通して、鹿沼土・祭り屋台・さつき・千手山・黒川等、鹿沼の風物が織り込まれているものの、「ネオン」や「おぼこ娘」など、艶めいたフレーズが含まれる『音頭(芸)』に代わって、新生鹿沼市に相応しい『音頭(市)』が求められるに至ったのではないだろうか。 

第1回市民夏祭り。 「より新しい郷土愛を育てようという趣旨で計画され」(『広報かぬま』(昭和58年7月25日号))、昭和58年8月20・21日に開催された同祭りでは、『鹿沼音頭(市)』による盆踊りが盛大に行われた。

鹿沼市はさらに1955(昭和30)年8月までに、周辺九村(板荷村・菊沢村・北押原村・北犬飼村・西大芦村・東大芦村・加蘇村・南摩村・南押原村)との大合併を果たし、隣接する粟野町との合併(2006(平成18)年1月)に至るまでの市域を確定させた。以降『音頭(市)』は、町内会や市民夏祭り等における盆踊りの伴奏曲として、長く親しまれていくこととなった。参加者全員が輪になって同じ振り付けを踊ることで齎される一体感は、「旧村民」から脱して新しい「鹿沼市民」としてのアイデンティティを確立し、結束を図る意識と象徴的に重なり合うものであったのではないだろうか。旧鹿沼町域に係る景物のみが歌詞に織り込まれた『音頭(芸)』の存在意義は、合併後の鹿沼市において急速に低下していったことだろう。昭和30年に発行された『栃木県商工要覧』に、鹿沼市の歌として芸妓組合及び新生鹿沼市の『鹿沼音頭』が併載されている事実は、この時期が市の発展過程において一つの過渡期であったことをも示していよう。 

2つの『鹿沼音頭』

また、新民謡の継承の困難性はその創作過程自体に胚胎するものでもあった。大正末期から昭和初期に掛けて民間交通の発達や昭和恐慌下における不況の挽回策として鉄道会社等が仕掛けた観光ブームが全国を席巻したことは前述したが、「旅客誘致のための宣伝手段、地方のイメージ喚起の具体策として、民謡、新民謡は有効な手段として考えられる」(※6)ような状況が存在した。これらの新民謡は「著名な作詞、作曲家に大金を積んで依頼する傾向が強く、いわば先を争って歌をつくり、PR合戦を演じた時代でもあった」(※7)とあるように、経済力のある料芸組合等が当地の事情に精通しているとは言い難い東京の流行作家に依頼するようなステータス偏重に陥る場合も多かったと思われる。事実、中山晋平・永井白眉という大家による『足利小唄』も当初は、「地元市民を無視して地元の唄を作ったことから賛否両論あった」(※8)という。

ちなみに、『鹿沼小唄/音頭』の作詞者である江崎小秋は、昭和2年に「日本仏教童謡協会」を発足し仏教童謡の第一人者としてその普及に努めた人物である(※9)。薬王寺(鹿沼市石橋町)の門前に二業見番(戦後は芸妓事務所)が所在したことや、鹿沼芸妓で結成した野球チーム「キャット俱楽部」の練習場として境内が開放されたことから、『小唄/音頭』の作詞依頼に当たり同寺の仲介があったことが考えられないだろうか。これは、仏教童謡→寺(薬王寺)→芸妓組合という連想からの推量であるが、確証は得られていない。

江崎小秋(しょうしゅう)(1902~1945)。 江崎は仏教童謡の他に『決戦盆踊り』等の戦意高揚歌も作詞し、東京大空襲に被災し焼死したといわれる。(写真は『江崎小秋歌謡選集』仏教年鑑社、昭和11年より)

閑話休題。数多く生み出されたこれら新民謡の中には、その性急な創作過程と相俟って花街における局地的な流行として旅行客や地元の粋人らに消費されていったものも多かったのではないだろうか。鹿沼においても例外ではなく、結局それらは花街における料理店や待合の宴席での余興として芸妓の演奏と共に歌い継がれるに留まり、大衆側への広範な伝播がなされることはなかったのであろう。

 

(※1)『下野新聞』(昭和12年5月18日付)
(※2)民謡及び新民謡の成立や普及の過程については、町田嘉章・浅野健二編『日本民謡集』(岩波文庫、1960年)、『大正史講義』筒井清忠「第12講 新民謡運動―ローカリズムの再生」(ちくま新書、2021年)を適宜参照した。
(※3)『宇都宮市史(第8巻)』p775
(※4)『商学研究(31号)』(2015年)刑部芳則「東京音頭の創出と影響―音頭のメディア効果―」
(※5)『栃木読売』(昭和12年6月15日付)
(※6)『ソシオロゴス(25号)』(2001年)武田俊輔「民謡の歴史社会学―ローカルなアイデンティティ/ナショナルな想像力」(2001年)
(※7)下野新聞社編『しもつけの唄』(下野新聞社、1980年)p216
(※8)前掲p255
(※9)江崎小秋の事績については、静岡産業大学論集『環境と経営』「昭和戦前期の仏教洋楽に関する一考察(Ⅱ)日本佛教童謡教会と江崎小秋の活動を中心に」(2002年)、早川タダノリ『神国日本のトンデモ決戦生活』(ちくま文庫、2014年)を参照した。


 

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