お金のことを考えるのに罪悪感って必要ですか?

noteを始めて3日目になる。3日坊主で生き続けてきた自分としては、2日以上継続して物事に取り組めているのは、とても喜ばしいことであり、それ以上に驚いている。そして、ちょっとだけワクワクしている。わし、やるやん。

今日までの記事にもつけてきたし、今書いているこの記事にも、僕は、#生きづらさ というハッシュダグをつけると思う。この言葉はすごく自分の人生を表していて、今の自分に親和性があって、そして多分、色んな人にそう思ってもらっていることばなんだろうなあと思う。

ただ、「自分は生きづらさを抱えているんだ」と強く思いすぎると、それはそれで現状に陶酔してしまったり、具体的に現状を認識・対象法を考える力を失うことになってしまう気もしている。
なので最近は、「自分は何に困っていて、そのためにはどんな行動をすればよいのか」ということを意識して生活するようにしている。


今日はお金について今思っていることを書いてみようと思う。

僕が育った家はいわゆる母子家庭というやつだった。もし、貧富磁石があるなら、ビル・ゲイツはs極の端に居て、我が家はn極の真ん中と端の間ぐらいの貧乏加減だったと思う。ちなみにsはsuccessのsで、nはnonsenseのnです。これはジョークです。

母親は、ワーキングマザーで朝早くに家を出ていき夜遅くに帰ってくるのが我が家の日常だった。ある日、母親が朝5時ぐらいに家に帰ってきてお風呂入って着替えて僕に一日分の食費を渡してそのまま仕事にいったなんてこともあった。
というか、僕が小学生の時はわりとそんな感じのときが多かった。

「働き方」なんて言葉なんて誰も考えもしていなかったと思う。

それでも、夜7時ぐらいに帰ってくることも割とあったりして、そんなときは近所の中華屋さんだったり、家で母親と一緒にご飯を食べたりした。僕はこの時間がそんなに好きじゃなかった。その時のことをはっきりと覚えているわけではないけど、ご飯を食べている時の母親は仕事のこととかお金のことをすごく僕に話したがっていた気がする。
「あいつ(父親)のせいで、私達はこんなに苦しんでるんだ」とか、「あいつは金の亡者だからお前はあいつみたいになるな」とか、ほぼ毎日そんな話を聞いた記憶がある。


今なら、「誰かに聞いてほしかったんだなあ」とか、「大学で、同一視とか投影とか習った気がするけどあれそうだったぽいなぁ」って冷静に意味づけできるけど(それでも思い出してしんどくなるときある)、
当時は、母親のすごくねちっこいトーンとか、むだに遠いのより大きな声とか父親の悪いところを僕に無理矢理にでもわからせようとする時のぐちゃってした母親の表情が、死ぬほど嫌いだった。
ちなみに、大人になるにつれて少しずつ知っていったけど父親は割と稼いでる人だったらしい。


なにが言いたいかというと、タイトルの「禁止令」は直接的に「これをするな!!」っていう文脈で言われなかったとしても、受け手の中では禁止令と同意義かそれ以上の否定として残り続けるんだと思う。
そして、多分、「親や他人に禁止・否定された事柄」ではなく、「私には無理だから、自分にはもったいないから」というあたかも自分の気持ち・価値観として言われた人の中に存在し続けるんだと思う。
最終的にその人は、その言葉を言われた記憶を封印するようにそのことからも(僕でいうとお金のこと)距離をとって思い出さないようにするんじゃないだろうか。


自分はそれに気づくのに、15年ぐらいかかった。ついさいきん、3日ぐらい前に突然気づいた。気づいたときは笑ってしまった。「あ、俺お金欲しいんだ」って。「お金稼ぐって悪いことじゃないよな」って。その時はお金のことを考えても罪悪感が全く出てこなくて驚いた。
こうして文字として見ると当たり前サンプル食品なんだけど、それまでの自分の中では、金をほしいと思う気持ち=金のことしか考えられないやべーやつっていう相対性理論みたいな方程式が365日×15〜16年間バチコンキマっていました。
なので僕の中では、時間がぎゃっこうするより「お金のことを考える時に罪悪感を感じなくて良い」っていう気付きの方が何百倍も価値があった。 


がめつくなったりお金のことしか考えられない人にならないようにはなりたくないし気をつけていきたい。

けれども、かといってお金のことを何も考えないように避けていくのではなくて、目を向けつつも時々缶チューハイ飲みながら「あー年収2000万ぐらい増えねーかなー、免許ないけどベンツほしいわー」って心の底からボヤけるように楽しく貪欲に生きていこうと思う。



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