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『タヨーセー』

多様性という言葉は厄介だ。
なぜなら、多様性を社会の中で認めさせるということがそもそも社会から多様性を認めない多様性をはじき出してしまう矛盾を含むからだ。
もちろんこれは詭弁であり、多様性という言葉の指し示す趣旨とは違う。
だが、所謂多様性はそれを主張するある偏った母集団の人々の想定し得る内においての"多様"であろう。
果たしてそれは本当に『多様』ですかい?という話だ。

本当の意味で人々の多様性というのが保たれるのであれば、それは万人の万人に対する闘争状態になってしまう。
個々人の欲望を叶えるための実力が肯定され、それを制御していた大きな力が消え、まだ残っている我々を支配するルールは自然の法則だ。
もちろん人々を制御する大きな力が消えたところで人類が凶暴化するわけではないだろうし、ほとんどの人間はその中でも何かしらの集団に属し、その中のルールに従って生きるだろう。
だが、多様性をそのままの意味で捉えると万人の万人に対する闘争状態が想定されうる。

それは殆どの人間が望むところではないだろう。
人間同士が欲望をぶつけ合い、勝ったやつがそれを実現するということが是とされる関係を望む人間の方が私には少ないように思われる。

では、俗に言う『多様性』とはどのようなものであろうか。
ここから先というか、この文章全体がそうだが、全く私自身の感想でしかないので真に受けて欲しく無いが、俗に言う多様性とは、それを主張する集団が、自身を善の側に置き、なおかつ世界をシンプルに捉えるための論理であると思う。
少なくともそのような振る舞いをしている人がいるように私には見える。

誤解のないように断っておくと、私は社会の中で多様性を認めようということには賛成ではある。
ただ、それは不可能に近いのでは?と思うほどに困難だと感じる。
そもそも人間存在はカテゴリー分け出来るほど単純ではない。
あらゆる身体的特性、思考特性、それはカテゴリー分けが可能だろうし、ある程度先天的なものもあると感じる。
だがそれに加え、出生してからの大小含むあらゆる経験によって構成された後天的な出来事の総体としての人間は途方もなく複雑であるだろう。

俗に言う多様性という言葉を使う集団はそれをカテゴリーでぶった切ってしまう、もしくは「人それぞれだからね」というペラペラの台詞で思考を放棄する。
双方自身を善に置き、ものごとをシンプルに捉えようとする働きだ。
また、カテゴリーでぶった切るということは、切る側の想定しうる範囲内で仕分けてしまうことだ。
それはある一つの解釈を押し付ける働きであり、本来の意味の多様性とは逆の動きではないか。

思うに多様性が社会で認められるということは、個々人の人間存在そのもののに向き合いその存在自体を全面的に肯定しつつ、社会の中でどの部分を正式に認めないかというのを決定することではないか。

だが、それは果たして可能だろうか。
人類80億人全てを主体として扱い、各々論議を重ねることは不可能ではないか。
そして、ここまでの文章では万人が西洋的自我の感覚を持っているというというのを前提にしているが、それは正しいのだろうか。
また、多様性というのも所詮一つのイズムであり、それを促進するのは、本来の多様性の意味とは全くの逆の動きになってしまうのではないか。

何かしらを主張するということは、ある前提に立ち、それに対するなにがしかを否定せざるを得ない。
多様性という一見それを克服するように見える主張も、ある前提に立ち、『多様性の否定』という多様性を否定するという自己矛盾を孕む。

じゃあものごとを静観すればいいんですかい?というとそれも違う。
主張とそれに対する批判とを繰り返してものごとは洗練されていくのであり、そのためには、多少個人として完全に合意できずとも何かしらの主義主張の潮流から主張を行うべきではないか。
そうすることで相対する主張も発展し、いつかは自分の属す主義主張と相対する主張が同一のものになるだろう。

なので私は今のところ多様性の立場に立っておこうと考えていたりする。

いろいろ書いたけどよぉ!!
マッッッッッジでなんかよくわかんねぇのよぉ!!
初めての記事を最後まで読んでくれてありがとねぇ!!
オレ、オマエ……スキ…。

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