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平凡

わたしは平凡な人間だ。


なにか突出した特技があるわけでもないし、決して賢いと言えるような成績でもないし、絶世の美女でもない。これといった生まれ持った才能も持ち合わせていないし、なにか一つのことに熱中したこともないし、オリンピアンでもスーパーヒーローでもない。平凡な人生を送っている。


人生は他人と比較するものでも張り合うものでもないとわかりながらも、何十億人もの人生と比べれば自分のこれまでの経験は薄い。この世に生を享けて14年、もちろん平坦な道ばかりではなかったが、ごく普通の人生を歩んできたと思う。


そもそもわたしは平凡という言葉が大嫌いだ。なにを以て平凡と定義するのか。だが、悔しいが今の私には平凡という言葉がいちばんしっくりくる。


思うに、私以上に平凡な人間はいない。自分の人生を平凡と定義するなら、私以外の人生は全て新鮮に思うし、濃いなと感じる。しかし、たとえ最新のテクノロジーやAIを駆使したとしても、人生の濃度は誰にも測れないだろう。インパクトや印象といった感覚に頼って測ることはできたとしても数値化はできない。なにが言いたいのかというと、平凡は必ずしも平均ではないということだ。数値化できない以上平均的な人生など存在しないはずだ。つまり、私は平凡な人生を送っているが、それが平均的という訳ではないのだ。また、私の思う平凡が、その人の平凡とは限らない。ひとりひとりの人生の彩りや経験に基づいて、自分なりの平凡の尺度が決まる。そう考えると、セルフカスタムされた平凡に、他人の人生を当てはめて勝手に落ち込んでいる自分は馬鹿馬鹿しいなと思う。SNSで他人の人生を覗いて己の平凡さを痛感する必要もない。


ここまで平凡とういう言葉をネガティブに捉えてきたが、平凡は言い換えれば“安定”ではないのだろうか。確かに刺激のなさに物足りなさを感じることもあるが、いつもそこにある平凡に包まれた小さな幸せがもたらす安心感は私にとって必要不可欠だ。


将来、どんな人生を歩んだとしても、命ある限り、平凡という言葉はなくならないと思う。この先私がどれだけ大きな成功体験を積み重ねたとしても、私は平凡な人生だなと思うだろう。それでいい気がする。

私はまだ14歳。これからどんな人生が待ち受けているのだろう。もしかしたら今では想像のつかないような波瀾万丈な人生を送っているのかも知れない。たとえ大人になった時に、振り返って平凡な人生だなと思ったとしても、楽しかったなと思えるように悔いなく生きていきたい。



平凡を追い続ける平凡な人生も悪くないのかもしれない。

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