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私の履歴書 「地域の幸せなありかた」と、それにどう企業、そしてテクノロジーが貢献するべきか」

自己紹介と簡単な経歴

初めまして。小平(こびらと読みます)と申します。41歳鹿児島県日置市在住です。

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いちき串木野というマグロ遠洋漁業が盛んな街に生まれ、小3で親の会社の移転に伴い鹿児島市に引っ越し。その後、大学で京都、大学院でアメリカのイリノイ州、ITコンサルや起業で東京、鹿児島市と移り住んで3年ほど前に日置市の海沿いのところに引っ越しました。

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家の前は海で夕日が落ちるところに住んでいます。妻の実家の近くで特に田舎暮らしで集落の最若手の一員として(集落の「青年部」は75歳まで!)、楽しく暮らしてます。

仕事はITコンサルや起業を経て、今は家業のエネルギー商社(LPG、電気、再エネ、ガソスタ、IT、貿易など)の社長を10年前に継ぎました。会社は私で4代目になり、曽祖父が串木野の金山の鍛冶屋の元締め、祖父がLPガス事業をはじめ、父がITや貿易の事業をはじめ、私が農業、スタートアップ、電気、ゼロカーボンなどの事業をはじめました(仕事については後日書きます)。

そんな私が今一番興味があるのは、自分自身の生活やビジネスを通じて「地域の幸せなありかたと、それにどう企業が、そしてテクノロジーが貢献するべきか」という点です。このnoteではそれをテーマにしていければと思っています。

地域と贈与を通じて始める関係

3年前まで鹿児島市の繁華街に住んでいたのですが、当時東京で別会社の経営も行っていたので、東京と半端な都会の行き来に疲れ、母親の祖父母が以前住んでおり、妻の実家のある日置市東市来町に移住しました。日置市東市来町は以前は漁業や温泉観光業などで栄えていたのですが、産業の衰退とともにシャッター街も増え、よくある過疎の地域になってます。

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上の写真は、東市来町の中にある温泉街の湯之元地区を高台の神社から写真を撮った所。空き家やシャッター店舗も増えています。3年も住んでいると知り合いも増え、愛着も出てきます。そんな時に元々、祖父母が湯之元で営んでいた衣料品のあった土地の活用をすることになり、Hamaoka Pocket Park というシェアカフェを令和3年の7月に建築しました。

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利用料完全無料、ということで当初、驚かれましたが、企業から街へのプレゼントと思ってます。そして今「贈与から街との関係性が始まり、深まる」というプロセスの真っ只中にいて、もちろん長年祖父母がお店をやっていたという関係性もあるのですが、自然といろんな相談事も来るようになりました。

地元の温泉会社のコンサルを温泉経営アドバイザーという名前で頼まれてやっていたり(無償!MEOやHP作成など)、地域のまちづくりグループに顔出したり、ふらふら歩いていても顔見知りも増え、以前の自分では考えられなかったなーと思いつつ暮らしています。私の仕事はエネルギーを中心としたインフラ業なのですが、インフラ企業としてどのように街と関係性を持つべきかという事に興味が湧いてきています。

地域の幸せなありかたと、それにどう企業が、そしてテクノロジーが貢献するべきか

どう生きるかというライフスタイルの選択は多様化しています。結婚して、都心に一軒家を買って、子供を育てて、老いた両親を引き取ってというクラシックな価値観の維持が社会の変化によって難しくなって来ていると思います。それは良し悪しでなく、「幸せ」の定義が難しくなってきているのかなと思います。

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前述したように、私の住んでいる海の方の集落も湯之元も高齢化し、地域の財政も疲弊してきており、地域の幸せの形は一様ではないと思います。ただ一方で社会の中で、addressなどの定額多拠点サービス(毎月4万円くらい払えば全国1000カ所の居住地に住み放題)が出たり、リモートワークが一般的になったり、今後は自動運転も出てきたり、テクノロジーによっていろんな新しい暮らし方の選択肢が増えてきています。

このnoteでは過疎が進む地方の1住人として、事業家として、日々の取り組みの中で幸せとは何か、そして企業活動やテクノロジーでどうそれに貢献できるのか、考えていることを書いていければと思います。また20-30代で取り組んで来た、アグリビジネス(インドで農場作ったり、農業ベンチャー作ったり、鹿児島の農場をNECグループにバイアウトしたり)の経験や、また今取り組んでいるエネルギー分野、特にゼロカーボンとクラシカルなエネルギー業界が取り組むべきかということを週1本くらいづつ書いていきます。よろしければフォローください。

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