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【心に響く漢詩】王維「鹿柴」~夕陽が照らす静寂の景趣

    鹿柴   鹿柴(ろくさい)      
                           唐・王維
  空山不見人  空山(くうざん) 人(ひと)を見(み)ず
  但聞人語響  但(た)だ聞(き)く 人語(じんご)の響(ひび)くを
  返景入深林  返景(へんけい) 深林(しんりん)に入(い)り
  復照青苔上  復(ま)た照(て)らす 青苔(せいたい)の上(うえ)

 王維(おうい)、字は摩詰(まきつ)。盛唐期の詩人として、李白・杜甫と並ぶ大詩人です。

 太原(たいげん)(山西省)の名家の出身で、年少の頃から天才と称されていました。十五歳の時、科挙受験のために都長安に上京しました。その頃にはすでに、詩文や音楽に卓越し、貴族階級の人々の間で広く名を知られていました。

 二十一歳で進士に及第し、地方官を経て中央の政界で官職を歴任し、宮廷詩人としての名声を得ました。四十代で都の郊外に別荘を構え、優雅な生活を送っています。
 
 安史の乱(七五五)が起こると、賊軍に捕らえられ、安禄山に仕えさせられました。乱が平定された後、賊軍の朝廷に仕えたことで重罪を得ますが、弟王縉(おうしん)の嘆願によって特赦されます。
 その後、官は尚書右丞(しょうしょゆうじょう)(中央官庁の大臣)にまで至っています。

 王維は、山水の風趣を優美に詠じた詩人です。唐代を代表する自然派の詩人として、孟浩然(もうこうねん)・韋応物(いおうぶつ)・柳宗元(りゅうそうげん)とともに、「王孟韋柳」と併称されます。

 また、敬虔な仏教徒であった母の崔(さい)氏の影響を受けて、王維の詩には、禅的なイメージを見ることができます。
 李白を「詩仙(しせん)」、杜甫を「詩聖(しせい)」と呼ぶのに対して、王維は「詩仏(しぶつ)」と呼ばれます。字の摩詰は、名の維と併せて維摩詰(ゆいまきつ)(菩薩の名)にちなんだものです。

 王維は、音楽や絵画にも精通した多才な文人でした。王維の詩には絵画的描写が印象的で、宋の蘇軾(そしょく)は、「詩中に画有り、画中に詩有り」と評しています。

 王維は、四十三歳の時、長安郊外の藍田(らんでん)県(陝西省)に別荘を購入しました。もとは初唐の詩人宋之問(そうしもん)の別荘であったものを買い取り、輞川荘(もうせんそう)と名付け、そこで半官半隠の生活を送りました。
 「半官半隠」は、古代中国の文人が理想とする生活様式です。高位高官の役人として出仕するという世俗的な願望をかなえ、同時に、そうした世俗の世界に背を向ける高潔な隠者を自任することもできるからです。

 輞川荘は、広大な園林です。中には二十箇所の景勝地があり、王維は友人の裴迪(はいてき)とともに、二十箇所について、それぞれ一首ずつ合計四十首の五言絶句の連作を作り、『輞川集』としてまとめました。

 この詩は、『輞川集』の中の一首です。詩題の「鹿柴」は、輞川二十景として王維が名付けた場所の一つです。「柴」は、木で作られた砦。野生の鹿の侵入を防ぐ柵のことです。

空山(くうざん) 人(ひと)を見(み)ず
但(た)だ聞(き)く 人語(じんご)の響(ひび)くを

――人気(ひとけ)のないひっそりとした山の中、人の姿は見えない。ただどこからか、人の話し声が聞こえてくるだけだ。

 「空山」は、人の気配のないひっそりとした山。「見 」は、見える。自然に目に入ること。「聞」は、聞こえる。自然に耳に入ることをいいます。
 「人語」は、人の声。ここでは、静寂さをいっそう引き立てる効果を与えています。まったく物音がしないという表現より、さらに静けさを感じさせる表現です。
 松尾芭蕉の俳句に、「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」「古池や蛙飛びこむ水の音」などとあるのも同じで、「ミーン、ミーン」という鳴き声や「ポチャン」という水音によって、より静けさを際立たせているのです。

返景(へんけい) 深林(しんりん)に入(い)り
復(ま)た照(て)らす 青苔(せいたい)の上(うえ)

――夕陽の光が、奥深い林の中に差し込んでいる。そして、緑の苔の上を照らしている。

 「返景」は、夕陽の照り返す光。「景」は、日差しをいいます。「青苔」は、緑色の苔です。

 ちなみに、結句の末尾の「上」は、通常は「うえ」と解釈しますが、動詞の「上(のぼ)る」である、とする説もあります。その場合は、
  「復(ま)た青苔(せいたい)を照(て)らして上(のぼ)る」
と訓読することになります。
 この説の根拠は、押韻にあります。近体詩の押韻において、韻字の声調は平か仄かだけではなく、平・上・去・入の四声の声調を合わせるのが原則です。大半の詩は平声で押韻しますが、仄韻の場合、例えば、上声なら上声、入声なら入声で押韻するのが普通です。
 この詩では、「上」を「うえ」と読む場合は去声ですが、「上る」と読む場合には上声になります。承句の句末の「響」が上声ですので、押韻の上では「上る」と上声で読む方が合っていることになります。
 さらに、詩句の意味の上でも、「上」を動詞で読むと、夕陽がじっと同じ苔の上を照らし続けるという静止画像的な光景ではなく、夕陽が傾くにつれその日差しが苔の上をだんだんと這い上がっていくという動画的な光景になります。それによって、時間の推移を示すことにもなります。
 今日ではほとんど採られなくなった説ですが、とても面白い解釈ではあります。

 「鹿柴」は、夕暮れの情景の美しさと、その世界に浸り込む心境を歌った珠玉の五言絶句です。
 起句・承句では、聴覚的に、人語の響きによって、静寂の世界を描写し、転句・結句では、視覚的に、夕陽の赤と苔の緑が織りなす鮮やかな美の世界を描き出しています。
 絵画的な美しさに加えて、禅的なイメージも併せ持っている極めて完成度の高い芸術作品です。天才と謳われた王維ならではの詩と言えるでしょう。

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