見出し画像

「傾国の美女」西施~魚が溺れる美人


「沈魚美人」

西施せいしは、春秋時代末期(紀元前5世紀頃)の越の人です。
生まれた村に「施」という苗字の家が東側と西側に2軒あり、彼女は西側の施であったので「西施」と呼ばれるようになりました。

西施には「沈魚美人」の異名があります。西施が川辺で洗濯をしていた時、そのあまりの美しさに驚いた魚たちが泳ぐのを忘れて沈んだ、という俗説に由来しています。

西施

「傾国の美女」

春秋時代、呉と越はたえず激しい戦闘を繰り返していました。

呉王闔呂こうりょが越王勾践こうせんとの戦いで傷を負って死ぬと、闔呂の息子の夫差ふさが王の座を継ぎ、父の仇を討とうと決心します。夫差はたきぎの上に臥して自らに苦痛を与え、復讐の志を忘れまいとしました。

3年後、夫差は勾践を会稽山かいけいざんに追いつめて降伏させます。敗れた勾践は、のちに釈放されて国に帰りますが、この屈辱を忘れまいとして、部屋に苦い獣の胆を吊し、それをめて自らを奮い立たせます。勾践は富国強兵に努め、20年後、とうとう呉を攻め滅ぼします。

以上が、故事成語「臥薪嘗胆がしんしょうたん」で知られる呉越の戦いです。

最後に越が呉を破る際、武将の范蠡はんれいが越王にある策を献じました。
呉王夫差に美女を献上して惑わせ、戦意を失わせる、という策略です。

范蠡は美女を探して国中を歩き回り、そこで見つけ出したのが西施です。

越王勾践が呉王夫差に西施を献上すると、范蠡の思惑通り、夫差はその美しさの虜となり、日夜遊興に耽り、国政を疎かにした結果、ついに呉は滅亡に至ります。 

こうして、西施は「傾国の美女」(国を傾けた美女)として知られるようになります。

西施の行く末

さて、国を傾けた美女西施は、その後どうなったのでしょうか?

一説には、呉が滅びる前、呉王が殺したと言います。

別の説では、越に戻った西施を勾践が殺したと言います。

また別の説では、越王が呉王の二の舞になることを恐れて、越王夫人が西施を殺したと言います。

これら悲劇バージョンの伝説では、いずれも「生きたまま皮袋に入れて長江に沈める」という凄惨な殺され方をしています。

一方、范蠡と共に幸せに余生を送った、というハッピーエンドバージョンの伝説もあります。

この伝説は、明代の戯曲『浣紗記かんさき』に受け継がれています。

『浣紗記』は、「范蠡と西施は、出会って互いに一目惚れする。西施が呉王に献上されて呉が滅びた後、越に戻った西施は范蠡と再会する。二人は出奔して伴侶となり、太湖に舟を浮かべて愛を語り合う」という物語です。

西施の「しかめっ面」

道家の書『荘子』の「天運編」に、次のような寓話があります。

西施は胸を病んでいたため、顔をしかめて歩いていた。同じ村の醜女がそれを見て美しいと思い、同じように胸を抱えてしかめっ面をして歩いた。気味悪がった金持ちは門を閉じて外に出ず、貧乏人は妻子を連れて逃げ出した。

この寓話は、のちに「ひそみならう」という故事成語になっています。「善し悪しを考えずに人の真似をして物笑いになる」という意味で使います。

李白「蘇台覧古」 

西施のことは、歴代多くの詩人が詩に詠んでいます。

李白に「蘇臺覧古そだいらんこ」という詩があります。
「蘇臺」は、呉王が姑蘇山に建てた宮殿です。 

春秋時代から約1,000 年の後、唐の詩人李白が呉の宮殿跡を訪れた際の感慨を詠じた詩です。

舊苑荒臺楊柳新  旧苑 荒台 楊柳 新たなり
菱歌清唱不勝春  菱歌りょうか 清唱 春に勝えず
唯今惟有西江月  だ今 だ 西江の月のみ有りて
曾照呉王宮裏人  曽て照らす 呉王 宮裏の人

――古びた庭園と荒れた高台に、柳だけは今年も新しい芽を吹いている。
菱の実を採る乙女たちの澄んだ歌声を聞くと、春の愁いがこみ上げてくる。
もう今はただ西江の上に昇る月だけが往時を偲ばせている。
かつてあの同じ月が、呉王の宮殿にいた美女を照らしていたのだ。

蘇東坡「飮湖上初晴後雨」

宋代の蘇東坡の詩「飮湖上初晴後雨」(湖上に飲み初め晴るるも後に雨ふる)にも西施が登場します。

今の浙江省杭州にある西湖の美しさを詠じた詩です。

水光瀲灧晴方好  水光 瀲灧れんえんとして 晴れてまさに好く
山色空濛雨亦奇  
山色 空濛くうもうとして 雨も亦た奇なり
欲把西湖比西子  
西湖をって 西子と比せんと欲すれば
淡粧濃抹總相宜  
淡粧 濃抹のうまつ すべて相い宜し

――湖面が輝き、さざ波がしきりに動くのは、晴れた時がよい。 
山の色が霧雨に煙る風情もまた独特の趣があって素晴らしい。
西湖をかの西施に喩えて言うならば、 
薄化粧も濃い化粧も、どちらも似合っている。

「美女」の悲劇性

中国の「四大美女」は、一般的に、これら4人の女性とされています。

西施(春秋)   王昭君(前漢)   貂蝉(後漢)   楊貴妃(唐)

西施、王昭君、貂蝉、楊貴妃

時代順では西施が最も古く、中国美人の元祖のような存在です。

さて、「四大美女」に共通するのは、美しい容貌や優れた才能を持つことのほかに、みな悲劇性を持っていることです。

しかも、その悲劇はみな国の政治や、国の存立そのものに関わっています。

西施は、敵国の王を色香で誑かすために送り込まれた貢ぎ物です。
王昭君おうしょうくんは、政略結婚で匈奴の君主呼韓邪単于こかんやぜんうに嫁いだ宮女です。
貂蝉ちょうせんは、架空の人物ですが、董卓とうたく呂布りょふを仲違いさせる計略に利用された王允おういんの養女です。
楊貴妃ようきひは、玄宗の寵愛を受けますが、国を危機に晒した元凶として殺害されます。

彼女らの悲劇はみな王や皇帝のための自己犠牲という悲劇であり、それが「四大」に選ばれる所以なのです。

こうした傾向は、古典詩の世界でも同じようなことが言えます。

中国の「二大詩人」と言うと、李白と杜甫が挙げられますが、この2人を差し置いて別格なのが屈原くつげんです。楚国の行く末を嘆きながら汨羅べきらに身を投じた「憂国詩人」であるからです。

また、李白と杜甫を比べて優劣を論じる際、評価が高いのは杜甫の方です。これも、杜甫が民を思い国を愁えた社会詩を多く残しているからです。

このように、美女の評価も文学作品の価値もすべて「国家」や「政治」との関わりが尺度になっています。

中国文化の伝統的な体質の表れと言ってよいでしょう。

この記事が参加している募集

古典がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?