見出し画像

【心に響く漢詩】無名氏「戰城南」~野死した屍の独白

   戰城南                戦城南(せんじょうなん)
                          無名氏
  戰城南 死郭北   
  野死不葬烏可食
  爲我謂烏
  且爲客豪
  野死諒不葬
  腐肉安能去子逃 
  水深激激
  蒲葦冥冥
  梟騎戰鬪死
  駑馬徘徊鳴
  梁築室
  何以南 何以北
  禾黍不穫君何食
  願爲忠臣安可得
  思子良臣
  良臣誠可思
  朝行出攻
  暮不夜歸

城南(じょうなん)に戦(たたか)い 郭北(かくほく)に死(し)す
野死(やし)して葬(ほうむ)られず 烏(からす)食(くら)う可(べ)し
我(わ)が為(ため)に烏(からす)に謂(い)え
且(しばら)く客(かく)の為(ため)に豪(な)け
野死(やし)して諒(まこと)に葬(ほうむ)られず
腐肉(ふにく)安(いず)くんぞ能(よ)く子(し)を去(す)てて逃(のが)れんや
水(みず)は深(ふか)く激激(きょうきょう)たり
蒲葦(ほい)は冥冥(めいめい)たり
梟騎(きょうき)は戦闘(せんとう)して死(し)し
駑馬(どば)は徘徊(はいかい)して鳴(な)く
[梁(リャン)]室(しつ)を築(きず)くに
何(なに)を以(もっ)て南(みなみ)し 何(なに)を以(もっ)て北(きた)する
禾黍(かしょ)穫(と)らずんば 君(きみ)何(なに)をか食(くら)わん
忠臣(ちゅうしん)為(た)らんと願えども 安(いず)くんぞ得(う)可(べ)けんや
子(きみ)の良臣(りょうしん)を思(おも)え
良臣(りょうしん)は誠(まこと)に思(おも)う可(べ)し
朝(あした)に行(ゆ)き出(い)でて攻(せ)め
暮(く)れに夜帰(やき)せず

 漢の武帝の時、楽府(がくふ)という音楽を掌る役所が設けられました。
 そこでは、宮廷における祭儀用の楽曲を制作するとともに、各地に伝わる民間歌謡を採集し、それらに音曲を付けて楽歌として整理保存しました。

 のち、こうしてこの役所で採録された歌謡体の詩そのものを指して、楽府と称するようになります。
 そこで、両者を区別するため、役所名を「がくふ」、詩体名を「がふ」と呼び分けています。

漢武帝

 漢の武帝は、大の音楽好きで知られる人です。楽府を設けた主な目的は、おそらく宮廷における娯楽のためであったでしょう。

 しかし、表向きには、「民情を察するため」という名目になっています。つまり、民間に伝わる歌謡は、為政者が庶民の心情を察し、時の政治の善し悪しを判断する材料となりうる、という考え方です。楽府が「諷諭の文学」といわれるゆえんはここにあります。

 また、このことは、「文学は政治の道具である」という伝統的な中国人の文学観を端的に示すものでもあります。

 楽府は、元来は、歌詞と音曲がセットになった楽曲・楽歌でした。
 ところが、のちに歌詞の方が一人歩きを始め、音曲を伴わずに、歌謡風に歌った楽府体の詩が作られるようになります。

 このように、漢代以後は、楽曲・楽歌としてではなく、詩歌として盛んに歌われるようになり、韻文の中の一つのジャンルを形成するに至ります。

 楽府は、本来、楽器の演奏に合わせて歌われるものであったため、体裁は一定せず、旋律に従って長短さまざまな句によって構成されています。

 その内容は、当時の社会の現実をリアルに伝えるものであり、民衆の生活の一場面を捉えて、ごく日常的な事柄を一篇の寸劇に仕立てたような叙事詩になっています。

楽府詩集

 「戦城南」は、戦場に打ち棄てられた兵士の屍(しかばね)をカラスが啄むさまを兵士の独白で歌ったものです。

 宋・郭茂倩撰『楽府詩集』では、「鼓吹曲辞・漢鐃歌」のグループに収められています。馬上で鐃(どら)を鳴らして演奏する軍楽の類です。

城南(じょうなん)に戦(たたか)い 郭北(かくほく)に死(し)す
野死(やし)して葬(ほうむ)られず 烏(からす)食(くら)う可(べ)し

――わたしは、南へ北へと駆り出されて、ついに戦死した。死んで野ざらしになったまま葬られることもなく、カラスの餌食になっている。

「城郭」は、都市を囲む城壁。内側を「城」、外側を「郭」といいます。「戰城南、死郭北」は、あちらへこちらへと徴発されて、戦って死ぬことをいいます。

我(わ)が為(ため)に烏(からす)に謂(い)え
且(しばら)く客(かく)の為(ため)に豪(な)け
野死(やし)して諒(まこと)に葬(ほうむ)られず
腐肉(ふにく)安(いず)くんぞ能(よ)く子(し)を去(す)てて逃(のが)れんや

――わたしのためにカラスに告げてくれ。「せめてしばらくの間は、異郷に死んだ兵士のために、号泣してくれ。野ざらしのまま、きっと葬ってくれる人もいない。死んで腐った肉が、おまえたちから逃げていくことなどできないのだから」と。

「客」は、異郷にある者。ここでは、戦死者自身をいいます。
「豪」は、号泣する。ここでは、死者に対する哭礼をいいます。
 中国では、葬儀の場で、親しい者は、大声を上げて泣くのが礼儀でした。哭礼は、死者に対して哀悼の意を示すだけでなく、古代は、死んだばかりの者に対する招魂の意味も含んでいました。

水(みず)は深(ふか)く激激(きょうきょう)たり
蒲葦(ほい)は冥冥(めいめい)たり

――傍らを流れる川の水は深く澄みきり、水辺には蒲や葦が鬱蒼と生い茂っている。

 「激激」は、水が清く澄んださま。
 「冥冥」は、草木が鬱蒼としたさま。

梟騎(きょうき)は戦闘(せんとう)して死(し)し
駑馬(どば)は徘徊(はいかい)して鳴(な)く

――勇敢な騎兵は、戦闘で命を落とし、主(あるじ)を失った馬が、辺りをさまよい嘶(いなな)いている。

 「梟騎」は、勇ましい騎兵。戦死者自身をいいます。
 「駑馬」は、鈍い馬。ここでは、騎兵が死んで、乗り手を失った馬をいいます。

[梁(リャン)]室(しつ)を築(きず)くに
何(なに)を以(もっ)て南(みなみ)し 何(なに)を以(もっ)て北(きた)する

――築城の人夫は、城を築くのが仕事のはずなのに、どうして南へ北へと戦場に駆り出されていくのか。

 「梁」は、囃子詞(はやしことば)。調子を整えるため、歌詞の間に挿入する意味のない言葉です。
 「築室」は、築城などの土木工事をすること。
 「何以南、何以北」は、築城の人夫が、なぜ各地へ徴発されなければならないのか、という不満の表白です。

禾黍(かしょ)穫(と)らずんば 君(きみ)何(なに)をか食(くら)わん
忠臣(ちゅうしん)為(た)らんと願えども 安(いず)くんぞ得(う)可(べ)けんや

――イネやキビが収穫できなくなったら、君主といえども、食べる物がなくなってしまうだろうに。忠臣たらんと願っても、戦死してしまっては、どうしてその願いがかなえられようか。

 「禾黍」は、イネとキビ。穀物の総称です。収穫ができないというのは、民がみな戦死して、農作の人手が足りなくなることをいいます。

子(きみ)の良臣(りょうしん)を思(おも)え
良臣(りょうしん)は誠(まこと)に思(おも)う可(べ)し
朝(あした)に行(ゆ)き出(い)でて攻(せ)め
暮(く)れに夜帰(やき)せず

――君主よ、あなたの善良な臣下のことをどうか考えてください。善良な臣下のことは、本当によく考えるべきなのです。彼らは、朝に出発して戦場に行き、夜には死んでもう家には帰らないのですから。

 「子」は、男子に対する尊称。ここでは、君主を指します。
 「良臣」は、善良なしもべ。ここでは、君主のために働く民を指します。

 「戦城南」は、死者である「わたし」が、一人称で自分自身の死を語り、縷々恨み言を述べ、戦争の不条理を訴える、という極めて特異な詩です。

 楽府の諸作品には、庶民の生(なま)の声をそのまま写し取ったような詩句が多く見られます。

「孤児行」は、幼くして親を失い、兄夫婦に虐待される孤児の嘆きを歌い、
「東門行」は、困窮の末に、強盗を企てる夫を妻が引き留めるさまを歌い、
「婦病行」は、妻が病死し、あとに残された夫と子供の悲惨な生活を歌っています。

 社会の底辺でもがき苦しんでいる人々の悲痛な叫び声が聞こえてきます。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?