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1キロのパスタは子泣き爺

あなたは1キロのパスタをゆでたことがあるだろうか。
私はある。ついさっきだ。


オットと子どもがパスタを食べたいと言う。
渋るが受け入れてくれない。目をキラキラさせるな。仕方ない。腹をくくる。
自宅にある一番大きな鍋になみなみと水を入れ、火にかける。
塩をバサッと豪快に入れる。これって意味あるのか?とか考えたら負けだ。

かなり時間がかかるが、ようやく鍋の底からゴボゴボと気泡が上がってくる。
あらかじめ封を切っておいた乾麺(1キロ)を、両手でつかんで鍋底にたたきつける。片手では持ちきれないからだ。
一気に白く濁るお湯。立ち上がったまま動かない麵。物理的に余裕がないのはわかるけどなかなかのインパクトだ。
立っちゃってるんだもの。
それをトングで湯につかるように動かす。厳しい。鍋と麺の量が見合ってない。それでもどうにか大半を寝かせることに成功する。

まんべんなく火が通るように腕の力だけで鍋全体をかき混ぜる。
さっきから手首がやばい。だがここで手首を殺るわけにはいかない。まだまだ序盤だ、相棒を失うわけにはいかない。
茹で時間の長さに一瞬現実逃避したくなる。でももう遅いのだ。賽は投げられた。麺は湯の中だ。

先ほどまで頑なまでに直線を保っていた麺たちが、各々好きなようにしなやかにうねりだす。その表面は艶やかで、蒸気というフィルターまでかかる。
こう聞くと官能的だが、実際はもうもうと上がる湯気と熱気の中鍋をかき混ぜ続けるという、まるで真夏の甲府でダンベル運動をしているようなものなので全然エロくない。地獄ぞ。
イタリアの母(概念)に想いを馳せる。こんな重労働を毎日してるのか。えらいなイタリアの母。マンマミーア。

しかし乾麺の力というものはすごい。一本ずつならかわいらしいものだが、それぞれが水分を取り込み膨張し己を主張し、てんでバラバラの方向に手足を伸ばす。3歳児の全力イヤイヤとどっちが手に負えないか?同じくらいか?ギリ勝ってるか?
3歳児との共通項はまだある。こっちは数分で終わることではあるが、どんどんカサが増してゆき重量が増えていくということだ。子泣き爺かよ。

鍋の子泣き爺はもはや膨らんで微動だにしない。トングで混ぜたところで鍋の形のままグルグル回転するだけなのだ。意味がない。

諦めてタイマーを見る。あと2分。

みなさんご存知と思うが、ただ待っているだけの2分というのは長い。体感では、結構我慢してたけどそろそろまずいのでトイレに駆け込んだら混んでいて列に並ぶ、あと2人、うわーちょっとやばいまだかよマジかよと不自然な姿勢で待っている時ぐらいの長さ。

子どもが椅子に座り、テーブルをフォークで叩く音が聞こえる、お前ら早いんだよ。いつも呼んでもこないくせになんで今日に限ってすぐ来るんだよ、こちとらいつもすぐ来ないから早めに呼んだってのに気まぐれやめろよ。

腹の中で毒付いていたらタイマーが鳴る。ここからが一番やばい。やばいというか怖い。膨らみまくったパスタと熱湯を分離する作業は危険が伴うのだ。つまり具体的にはこの大鍋を持ち上げ、傾けて中身をザルにあけるのだ。視界は白くお湯は熱く手首は痛い。グッと奥歯に力を入れて鍋の中身をざるにあける。ものすごい湯気、顔全体が潤う。アンチエイジングに1キロパスタどうですか奥さん。潤いますよ。毛穴開きまくりますよ。

パスタは子泣き爺の集合体なので、一部の暴れん坊の爺は団体行動に飽きてシンクにバタッとおちる。どーでも良くなってくる。私はさっきから何をやっているんだ。意味がわからない。料理ってこういうものだっけ?そもそもこれって料理なのか?鳥と卵どちらが先に生まれたの?宇宙って何?
思考がパスタから遠く離れていく。ボンヤリしつつ手元は狂わせないのが日々の家事を一手に担うおかあさんというものなのだ。おかあさんってえらいね。私にもおかあさんが5人ぐらい欲しい。

あらかじめ用意しておいたソースと和えていく工程もなかなかの酷さだったけれど、そこは割愛する。鍋三つにパスタを分けないとソースが絡まないとか、そんなことは1キロもパスタを茹でる人生とは無縁の人は知らなくていい。どうにかこうにか料理として格好がつくところまで漕ぎつけてテーブルに運ぶ。

いただきます。

食べている時は全て忘れているがなんとこの後、怒涛の鍋三つ・フライパン二つ・4人分の皿フォークコップを洗う作業も残されているのだ。マンマミーア!


何が一番怖かったかって、このパスタが全員の腹の中に残らず収まったということだ。1キロぞ?茹でる前で1キロ。年齢一桁の子2人と両親の4人家族ぞ???



※2020年Twitterに上げた文章を加筆・修正したものです


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