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蟷螂の夏(2)

再会

 それから程なくして、彼は強く逞しいおとなの蟷螂へと変貌を遂げた。枯れ草のようだった肢体は、いまや若枝のように固く張り詰め、両眼はカンラン石を嵌め込んだように爛々と輝いていた。

 あれから何匹もの虫を喰らい、時には同族をも手に掛けて生き延びてきたが、あの揚羽蝶とは未だに会えずにいた。得体の知れない焦燥感に押し潰されそうになっていたある日、似た蝶を見かけて思わず駆け寄った。

 しかし、それは彼女ではなかった。確かによく似ていたが、別の種類の蝶だったのである。よくよく見れば、翅の模様が少し違うし、体格も揚羽蝶より幾分小さい。蟷螂は落胆した。

 それで、何もせずそこを立ち去ろうとしたのだが、物音で向こうに気付かれてしまった。振り向くやいなや、その蝶は大きな悲鳴をあげた。その耳障りな音を掻き消すように、彼は目の前の「偽者」を鎌でまっぷたつに切り裂いた。

 呆気なく絶命した「それ」を無造作に喰らいながら、蟷螂はあることをずっと考えていた。

 「彼女」も、何処かでこうやって他の誰かに喰われてしまったのだろうか。

 それは彼にとって許し難い想像だった。脳裏で幾度となく反芻した「彼女」の肢体を、今一度くっきりと思い描く。誰にも奪われたくなかった。どうにかして独り占めしたかった。

 しかし、独り占めして一体何をするというのだろう。

 手元に残った食べさしを何気なく見下ろした時、無残な断面を晒した死骸が、ほんの一瞬だけ「彼女」の面影と重なって見えた。

 哀れな黄揚羽を投げ捨てて、蟷螂は逃げるようにその場を後にした。

 ***

 その日の夕立は凄まじかった。豪雨を避けて飛び込んだ先は、いつかと同じ菩提樹の葉陰だった。辺りには金色の花が咲き乱れ、むせ返るような甘い芳香が立ち込めていた。

 そこには先客がいた。芳しい花びらに包まれて、象牙色の翅がしどけなく横たわっている。蟷螂は驚愕に身を震わせた。夢にまで見た「彼女」がそこにいた。

 揚羽蝶は起き上がり、彼を見て少し微笑んだ。
「久しぶりだね。蟷螂さん。」
喜びから一転、彼は絶望の底に叩き落とされた。彼女の前では「面白い虫さん」のままでいたかったが、それはどうやら叶わぬ願いだったらしい。
「俺のことを知っているのか。」

と尋ねたが、彼女は何も答えなかった。逆に

「あなた、蝶を食べるんでしょ。」
と聞き返されて、蟷螂は思わず言葉に詰まってしまった。

 頭に浮かぶのは例の黄揚羽のことだった。無残な死骸。口いっぱいに広がる血肉の味。居た堪れなさのあまり、蟷螂は一目散に逃げ出そうとした。

 その時、揚羽蝶が彼の背中にしがみついた。えも言われぬ柔らかい感触。蟷螂の体に電流が走った。そして彼女は言った。

「私、あなたに会いたかったの。」

 蟷螂は思わず振り返った。あの日彼を狂わせた瞳が、すぐそばで彼を見つめていた。

「俺も、君に会いたかった。」

彼は震える声でそう答えた。

(続く)

タイトル画像:
inagakijunyaさん「蝶の羽根 #748 」より、キアゲハの前翅
参考:
「蝶の図鑑 よく見かけるよく似た蝶」より、アゲハ(ナミアゲハ)とキアゲハ