こんなおっさんができあがるまで【10】

皆さん、こんにちは。かんおさです。

何だか思った以上に長くなってしまった、恥だらけの人生語りもやっと終盤となります。
ここまでお付き合いして下さった皆様、本当にありがとうございます。

私はおっさんなので、その生態の例に漏れず、話が長く何となく説教っぽくなるという救えない特徴があります。
なので、もし、ここまで記事に目を通して下さっている方がいましたら、本当にありがとうございます、とお伝えしたいです。同時に、お疲れ様ですとねぎらいの言葉をかけたくなるほどです。

じゃあ、もっと短くしろと言われるとこれまた、難しい訳ですので、最初に謝っておいた上でお茶を濁しておきたいと思います(小ずるい大人)

前回の記事で、私はようやく、自分がこのままでは不幸から脱せない事に、おぼろげながら気が付きました。
しかし、気が付いてみたものの、どうすればいいかは解りません。

そんな状態から、私がどうしていったかを、順を追ってご紹介していきたいと思います。

自分と向き合う事① どんな時に辛くなるかを知る

まず最初に私が考えたのは、何でこんなに自分から見ても私は不幸そうなのか? という事でした。

実際、逆に幸せそうな方と言うのは、ある種の雰囲気と言いますかオーラと言いますか、そういう独特の場を作ることができると思います。

当時の私はその逆で、あくまで主観の域を出ない部分もありますが、凄く息の詰まる重苦しい場を作る事を得意としていました。
何でそんな事になっているのかは、その後の経験を経て理解する事になるのですが、それはまた別の機会があれば書きたいと思います。

話を戻して、私が不幸そう……実際に自分でも不幸だとは思っているのですが、何でそうなっているのか。

それはとても単純な話で、今生きている事が辛いからだと理解しました。

では、その辛さを取り除く事は無理にしても、原因となる事から距離を取れれば、少しは幸せに近づくのではないか? と当時の私は考えたのです。

ですから、まず、どんな時に自分が苦しく辛い思いをするかを、つらつらと箇条書きで書き出してみる事にしました。

前回の記事でも書いた通り、例えば幸せそうな人を見た時ですとか、結婚の報告でしたり、はたまた、小説の主人公のハーレムっぷりにまでムカつくところまで行ってました。

そうしたものを集めてみた結果、私の場合は、細かい諸々の事情を全て簡略化してみると、大体以下の事に集約したんです。

 ① 人が幸せそうなとき
 =(人より自分が劣っていると感じたとき)
 ② 人に罵倒された時
 ③ 自分のしたい事が出来ない時

ちなみに、生理的な嫌悪感を催すものについては除外してあります。
臭いであったり黒い悪魔であったり好き嫌いであったり、そう言う物は根源的なものなので、とりあえずは放置する事にしました。

また、③の自分がしたい事が出来ない時も、今回は除外しました。

何故ならこの原因の殆どが、お金に関わる話だったからです。
残念ながら無い袖は振れないので、ここもとりあえずは棚上げしました。

そうして残った①と②なのですが……
皆様がお気づきの通り、これはどちらも他人が関わる事です。

さて、私はこの時、見事に引きこもりにクラスアップ(ダウン?)していたので、ある意味で既に、あらゆるリアルという外界からの関りを極力カットしている状態でした。

だって、外に出れば幸せに満ち溢れた光景を目にしてイライラする事になるんですもん。
しかも天下のニート生活なので、飢え死にする事もありませんし、お金も無いとくれば、外に積極的に出る理由など皆無です。
前の記事でも書きましたが、ニート生活が進めば引きこもりになるのは自明の理なのです。

つまり、ある意味で既に物理的な対策はされている状態なのです。
ですが、現実はそんな事などお構いなしに、私の心を蝕んできました。

それもその筈で、現実と言うリアルに生きている以上、どうやってもそれを全て切り離して関りをなくす事は不可能なのです。

ふとした瞬間に、窓越しに楽しそうな声を聴いてしまうだけで、その苦しみは心の内から湧き出てしまうのです。
ひいては家族の楽しそうな様子を見るだけでも、暗い思いが湧き出る様になってしまうのは、時間の問題だと思われました。

また、②の罵倒されることについても同様で、家族からちょっとした愚痴のような小言を貰う事ですら本当に苦痛でした。

その時はまだ、苦痛程度ですんでいましたが、その内、そんな些細な事をきっかけに家族を憎んでしまう事になるかもしれません。そのことに気が付いた時、私は、このままではダメだと強く思いました。

自分と向き合う事② 幸せになるためには?

とりあえず、このままではダメだと感じた私ですが、実際どうしたら良いのかは、全くわかりませんでした。

今のこのネットの進んだ時代においては、先人達が残した金言の数々がこのnote様を始め、各所に残されております。

ですが、私の生きていた当時は、そういう事があまり表に出て来なかった時代です。
おっさんである私の同胞たちも、きっと同じ様な事で苦しんでいたと思うのですが、残念ながらその答えは、当時としては簡単には見つかる物ではありませんでした。

そんな途方に暮れた様な状態でありましたが、私はとりあえず考える事はやめませんでした。
なんせ時間だけは沢山ありましたので。

そうして、半分、意地になってこじつけの様に考えたのが、幸せになる方法です。

自分が不幸に感じる時を考えた訳ですが……
それならばそれを逆転させれば、幸せになれるのではないか?
そういう方向性で、考えていました。

我ながら酷く単純な思考回路で申し訳ないのですが、これが実は私の経験談としては当たらずとも遠からずと言うものでして。

 ① 自分が幸せそうなとき
 =(人より自分が優れていると感じたとき)
 ② 人に感謝された時
 ③ 自分のしたい事が出来た時

幸せになる為と言うか幸せを感じる条件と言いますか、そういう物の取っ掛かりくらいにはなるんじゃないかと、その当時は考えていました。

しかし、実は思いの外、この条件は有効でして、この考えを元に今の私が出来上がっていると言っても過言ではありません。
この条件は、突き詰めると幸せというより、自尊心を回復する手段のような物だと今の私は理解しております。

ただ、結果論にはなりますが、自尊心が回復する事で、幸せに近づく事は間違いありません。

何故なら、過去の私は、自尊心が大暴落した結果、自分自身の事が本当に嫌いだったからです。
自分を嫌いな人間が幸せになれる筈がないのです。

自分と向き合う事③ どうしても人と比べてしまう

過去の自分の大暴走の結果、私は社会のお荷物と化しておりました。
その事が本当に惨めで、申し訳なく、そして悔しくもありました。
これは、この記事をずっと読んで来て下さった皆様なら、お分かりいただけている事かと思います。

しかし、ここで立ち止まって、考えてみましょう。

何故、過去の私は、社会のお荷物である事をそんなに苦しく思っていたのでしょうか?

もし、この問いに対して「そんなの当たり前でしょ」と、感情だけで判断してしまう方がいらっしゃいましたら、良かったらこの先の話を読んで何か考える機会として下されば嬉しいです。

私が過去、働けなくなるまで無理したり、ニートとなってからも、虚無感に苛まれたのは、元を正せば、この強迫観念に似た思いに囚われていたからだと断言できます。

普通に生きられない事

これが、本当に私を深く深く、苛んでいました。
普通に生きられない人間に価値はないと言うのが、当時の私の感覚です。
勿論、それで他人を積極的に咎めたりする事は無かったのですが、それでも心のどこかで下に見て馬鹿にしていた節はあったと思います。
そんな下に見ていた存在に自分が成り果てた訳です。

自分にはできるんだから、他人に出来ないのはおかしい。
普通は◯◯なのに、あの人はダメだな。

容姿から始まり、趣味趣向、働き方、賃金、成績、本当に色々な事に、「普通は」という幻想が付きまとっていますし、それに対して疑問を持たないまま生活をする方も多いかと思います。

勿論、公序良俗に反する事は、人様の迷惑になる可能性が高いので気を付けた方が良いに決まっています。
普通とか以前の問題で、人様に迷惑をかけると自分に跳ね返って来ますので。

ですが、多くの方が当たり前の様に普通だと思っている事も、実は必ずしも必須条件ではない事が多いというのが今の私の考えです。

常識や普通と思われている物の中には、効率良く生きる為の知恵のような物が集約されているのは事実かと思います。
ですが普通の事が出来ないからと言って、それの全てが後ろ指刺されなければならない程、恥ずかしく愚かしい事なのかと言われれば、今の私は首を傾げざるを得ません。

そして、この普通という幻想に囚われ続けてしまった裏には理由がありました。

自分と他人を必要以上に比べてしまう

冷静になって考えてみれば、私が過去、苦しみ続けた原因は、多くがここに行きついていると分かりました。

勿論、自分と他人を比べてしまう事は、仕方ありません。
そうやって生きて行くのが人としての在り方と言っても過言ではないからです。

ですが、必要以上に比べてしまうのは、ナンセンスです。比べた所で、得るものなど殆どないからです。ですが、過去の私はその呪縛から逃れる事ができませんでした。
何故ならそちらにも明確な理由が存在したからです。

自尊心の欠如が意識を人と比べる方向に持って行く

これも良く考えてみれば当然の事で、過去の私は自尊心が最低ラインでした。
自尊心が最低ラインという事は、とどのつまり、自分に自信が持てない訳です。

そんな自尊心の無い極限状態に置かれると、人間は、少しでも自分より劣っていると思われる者を無意識に探そうとします。
つまり粗探しをしてしまう訳ですね。

そうして、他人の劣っている(と自分が勝手に思っている)所を見つけて、安心するわけです。

ですが、先程から書いている通り、実際は自分の自尊心は最低ラインなので、見えるもの見える物が自分より優れている物の様に思えるので、結果として自爆してストレスをためて行く訳ですね。

私が過去、他人の幸せな光景を見て辛かったのは、そういう心理があったのではと思っています。

以上の事柄を踏まえた上で、大まかな道筋が見えて来たと思います。

そう、過去の私はそれを朧気ながらに自覚しつつも、紆余曲折を経て、自尊心を回復させるために奔走する事になる訳です。

今回はここまで。
お読みいただきありがとうございました。

こんにちは! 世界の底辺で、何とか這いつくばって生きているアラフォーのおっさんです。 お金も無いし、健康な体も無いけど、案外楽しく生きてます。 そんなおっさんの戯言を読んでくれてありがとうございます。