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#3 Tom&Lex&Mac

 ポトン、と何かが落ちる音がして、視線を向けるとレックスが大きな体を棚の上に伸ばしていた。足元には、飾っておいた丸い小さなお人形。私の視線に気づいて、あれ? というような表情をするけれどもう遅い。
「レク! 何やってるの!」
 向けられた怒号に、レックスはあわあわと慌てて、戸惑ったように私を見つめた。
 この顔をしているってことは、もしかして……。ふとある思いがよぎった私の耳元を、てっ、てっ、てっ、と小さな足音がすり抜けていく。
「……マック」
 またあなたなの? そんな想いを込めて呼びかけると、マックは途端にきょとんとした表情を作る。え、ボク? 何も知らないですよ? そう言っているみたいに。
 丸いお人形は、きっとボールか何かに見えたのかな。残念ながら、これはあなた達のおもちゃじゃないの。落ちてしまったそれを戻しながら、まだ棚の下でそわそわとしているレックスの頭を軽く撫でた。ふわっとした毛並みを何往復かしてあげると、まるで何事もなかったかのように少しだけ尻尾を振る。
「すぐ騙されちゃだめよ、レク」
 ちょっと強めの言葉で伝えても、レックスにはわかっていないみたい。え? 何かあったっけ? と、ほんの数分前の出来事を忘れてるみたいにのほほんとした笑顔を浮かべている。……この調子だと、きっとまた、同じようなことが起こるんだろうな。
 お兄ちゃんを使っていたずら成功した末っ子は、自分は怒られない安全な場所でくつろいでいた。隣では一連のことに何も関わっていないトムが、くぅくぅと穏やかな寝息を立てて眠っている。その幸せそうな寝顔に一瞬和みそうになりながら、いけない、とマックの方をきっと睨んだ。
「お兄ちゃんを騙しちゃダメでしょ、マック」
 それでもやっぱり、めげた様子はない。
 マックが届かない場所のものを、レックスに頼むようになったのはいつだったか。いつだって、レックスはその悪戯に巻き込まれて、運悪く現場を抑えられては私に怒られている。
 そう、怒られるのはいつもレックス。マックはその時にはもうどこかへ逃げてしまって、あとは素知らぬ顔。我が家一のお人好し、ならぬお犬好しなレックスは、そうしていつも、マックに使われちゃっている。いい加減、学習すればいいのにね。だけどこの優しい子は、マックに頼まれると結局嫌とは言えないんだろう。
 末っ子のマックは、6歳になってもやんちゃが止まらない。頭が良くて、悪知恵も働く、我が家の三兄弟一の切れ者。だけどなんだかんだ言って、マックはレックスのことが大好きなんだろう。今も、近くに来たレックスのもとに寄って行って……って……
「マック! レックスの口の中にいかないの!」
 むに、と小さな手で口を開けられたレックスは為す術なく、ただ黙ってぺろぺろと口の中をなめられている。どうしてか、マックはレックスの口の中が大好きなのだ。

 あれはまだ、マックがうちに来たばかりの、本当に片手に乗る程度だった子犬の頃のこと。何気なくレックスを見るとその口もとからシルバー色のミックスカラーのお尻と尻尾が見えていて、ひやっとした。
「レックス!?」
 まさか、マックを食べちゃったの!?
 慌てて駆け寄ったけど、様子がおかしい。レックスはどこか助けを求めるように、困った顔でずっと私を見ていたのだ。
 とにかくお尻を抱えてマックを引っ張り出すと、不思議とその身体は濡れていなかった。レックスがくわえちゃったなら、マックの身体はべたべたになってしまっていたはず。ということは……。
「……もしかして、自分で入ったの?」
 手のひらの上で、マックは満足そうな表情をしている。一方のレックスは、ようやく、といったように大きく開けていた口を閉じて、ほっとした様子。ああ、そうか。マックの無謀な冒険に、レックスは付き合ってあげてたのね。だけどいい加減口が辛くなって、だけど閉じるに閉じれなくて、助けを求めに来た、って感じかな。
「いい子だね~、レク! ほんっといい子!」
 わしゃわしゃと全力で褒めてあげると、ちょっとだけ嬉しそうにレックスが笑った。表情豊かなレックスは、こうしてたくさんの表情を見せて、今の気持ちを伝えてくれる。
 ちなみに騒動の真犯人は、その後満足したのかゆったりと眠りについていた。まったく、人の気も知らないで。

 それ以来、レックスの口の中はマックのお気に入りスポット。カニンヘンダックスとはいえ成長した身体はさすがに口の中には収まらないけれど、時々強引に口を開いては、ぺろぺろとなめてレックスを戸惑わせている。
 いつかゴールデンレトリバーになれると思っていたマックにとって、レックスは一番の友達でもあり、気になる存在でもあるのかもしれない。
 ……ちなみに、マックのその切ない夢はまだ終わったわけじゃない。憧れが、「ゴールデンレトリバー」から「フラットコーデッドレトリバー」に変わっただけ。
 時々遊びに来るフラットコーデッドレトリバー君の後ろ姿を、最近マックはずっと追いかけている。どうやら、毛色が近いから自分の未来の姿はこっちだ、と思ってしまったらしい。真実を伝えてあげたいけど、もう少し夢を見させてあげたいような……。マックのレトリバーへの憧れは、まだ続いている。

 そんな下2人の茶番劇に振り回されているところに、ずっと眠っていたトムがゆっくりと起き上がってきた。来年の2月には16歳になるトムは、最近は眠っている事が多い。今も、ソファの近くからゆっくりと、窓辺の方へ移動している。眠る場所を変えるためだろう。その動きに気づいたレックスが、何を思ったかトムの後をついてソファの下をくぐろうとした。
「あっ、待って……!」
 気づいた時には時すでに遅し。レックスは頭だけソファにはめ込んで、見事に身動きが取れなくなってしまった。
「……レックス、だからね。君は大型犬なの、わかる?」
「ワン?」
 マックがレトリバーになれると信じているとすれば、レックスは自分がミニチュアダックスだと信じている。それは彼がずっと、トムと、それからもう一人いた先代のマックっていうふたりのミニチュアダックスフンドと一緒に末っ子として過ごしてきた時間が長かったからなんだろうけれど……。
 そろそろ、自分の身体の大きさを自覚してほしいところ。
「何回も言ってるんだけどなぁ」
 それでも、そんなちょっぴりおまぬけなところもたまらなく可愛かったりするんだから、犬ってずるい。

 トムが窓際で眠り始めてしばらくすると、雲行きが怪しくなってきた。嫌な感じだな、と思った次の瞬間、ピカッと空が光る。そうして鳴り響く、轟音。
「トム、大丈夫!?」
 昔から雷とか、花火とか、太鼓の音とか……そういう大きくて低い音が大嫌いな子だったから、心配になってそばに行ったけれど、トムは変わらず眠っていて、私の気配に少し目を開いたくらいだった。
 ……ああ、そうか。もう、大丈夫なんだよね。
 不思議そうなその瞳に、ごめんね、と言いながらもう一度眠れるようにそっと頭を撫でると、昔みたいにパタパタと、大きく尻尾を振ってくれた。
 三兄弟の中では、一番尻尾を振ってくれることが多かったトム。目が合うだけで尻尾を振ってくれて、名前を呼んだらもう、千切れそうな勢いでぶんぶんと尻尾を振ってくれていた。
 だけど目が悪くなって、耳も遠くなって、すっかりおじいちゃんになったトムは、今ではこうして撫でた時くらいしか尻尾を振る姿を見せてくれない。
 あんなに苦手だった雷も、きっとほとんど聞こえなくなっていて、だからこんなふうに、窓際でも穏やかに眠っている。
(これはこれで、いいのかもね)
 友達に言われたことがある。トムくんは、いい年の取り方をしているね、って。
 年を取って、見えたものが見えなくなって、聞こえていたものが聞こえなくなってしまっても、こうして、ものすごく苦手だったものにも苛まれることはない、っていうのは、たしかにトムにとっては、いいことなのかもしれない。
「でも、ゆっくりでいいんだよ」
 トムに年を感じることは増えてきたけれど、それでも、そう呼びかけ続ける。
 先代のマックは、まだ幼い頃に、突然……本当に突然、虹の橋を渡ってしまった。
 それはあまりにもあっという間の出来事で、悲しみから立ち上がるのにも、受け入れるのにも時間がかかってしまった。
 その時から、ずっとそばにいてくれてるトム。トムはゆっくりと年を取る姿を私に見せて、一緒に過ごせる大切な時を、愛おしむだけの時間をくれている。
「ゆっくり、ゆっくり……年を取っていってね」
 望みは、少しでも長く、優しい時間をトムと過ごせますように。
 いつの間にか隣に来ていたレックスとマックも、ころんと丸まって眠りはじめた。
 穏やかなひと時の中、遠ざかっていく雷鳴の音を聞きながら、私はトムの身体を撫で続ける。

 まだまだ元気ですよ、とでも言うように、眠るトムがパタリと尻尾を振ってくれた。

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Photo by Oura Shingo

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