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製図室で寝ていた私が、月に1度しか学校に行かなくなって

先週はどうしても、ある下書きも更新する気になれず、何者でもない自分が文章をただただ綴る事に、訳がわからなくなっていました。

元々自分のために書いていたのに、いざ更新し始めると、誰かが見ているとか、見ていないとか、世の中にありと溢れる有益な情報発信を見てはなんだか自分の文章がバカバカしくなってしまったり、そんな事を気づけば気にしていました。

そんな時は書かない方がいいと思って、これについて書きたいな〜って思う事が出てくるまで、自分の気持ちに正直に、待ってみようと思いました。(そしてその結果今書きたくなったから書いてる!)

と、何故、こんな出だしなのかというと。

この気持ちは私が他者(この場合は他の文章)比較ばかりしてしまったが故に感じていたことで、この比較というのが今日のキーワードです。

金沢に戻って約半年が経った

プロフィールやこちらの記事を見れば分かりますが、私はコロナ禍を機に学校のある京都の下宿を引き払い、金沢に戻って必要な時だけ学校に行き、卒業までを過ごすことに決めました。

6月の末、かつては非常食や割り箸などを備えていた私の研究室の机は真っ新になり、

事実上の製図室からの撤退となりました。

(製図室とは建築学生の住処も同然の、学校内で作業を行う場所です。研究室も同義。)

学部時代から留学前までの私はというと

・空いた時間はとにかく製図室に行ってた
・バイトが22時に終わってそのあと学校に行ったり
・本当に恥ずかしいですが提出前は3日間家のベットで寝ず、シャワーだけ浴びに帰ったり
・学校に行けばほぼ必ず意識の高い仲間が居て、自分も学校に行く事が自身の意識の意思表示のような感覚でもあった

留学中に考え方や過ごし方、時間の使い方を考えさせられたので、帰国後は製図室に住むような事はなくなりましたが、もちろん作業のために行っていました。(20時以降は絶対に作業しなくなりましたが。笑)

と、このように当たり前で身近だった場所から離れて、半年が経ちました。

1人で向き合うようになって気づいたこと

今は実家の一室で、パソコンと模型作業用の机を置き、作業しています。

周りには誰もいなくて、自分しかいない。

この環境は、同じ「大学(院)生」という肩書きであっても、圧倒的に違います。

つまり、同じように頑張っている相手の顔や姿、仲間の作ったモノが見えないのです。

そうすると、私は自分がどれほどやるべきなのか分からなくなったのです。そして今まで学校に行くことで、無意識に自分と自分以外の仲間を「比較」していた、やる時間ややった度量、目に見える物量ではなく自分の成果物の世界であるのに、心のどこかでそれらで比較していた自分に気づきました。隣の芝生が青いことも多かった一方で、比べることでどこかで自分を正当化する理由を見つけていたような気もします。(今思うと最低すぎる・・・)

1人で作業するのは、自分の弱さとも戦うことになります。やりたくないと思っても、目の前にやってる仲間がいないから、すぐにサボれてしまう。サボる私を見る仲間もいません。

受験は団体戦と同じ理論です。

この環境に置かれて、自分がちゃんとやってるのか、どう肯定すればいいのか、分からなくなって、すごくどうしようもない気持ちになることに気づきました。

ただそれと同時に、他人と比較することなく、本当に作るモノに向き合える時間でもあることに次第に気づくようになりました。というのも、目の前にある自分が作るモノ、考える提案、そして自分の過ごし方でしか自分を認めてあげることができなくなったからです。

そして自分がいかに、無意識に、他人と自分を比べていたのか、(きっと競争心が強すぎるのもこれが原因)ということに気付かされたのです。


今は修士設計をやっていますが、本格的に手を動かしはじめた10月は、どうしたらいいか分からず、結局何も進んでいないことにものすごく嫌悪感を抱いた時期もありました。

ただ、他人と比較ばかりしてしまう(と気付いた)私にとって、自分としか向き合えない時間も、6年間の学生生活の最後に、あってもよかったのかも。って今はそう思いながら、制作しています。

とはいえ自分1人では作ることはできません。客観的な意見はもちろん案を深めるために大事だし、知識の共有や議論の場を享受していたいから、月1のゼミの参加もそうですが、オンラインで自主ゼミを開いたり、彼に週1で案のチェックをしてもらったりしています。

とはいえ、こんな事も、私が6年間学校に在籍したから言えることである気もしています。特に1.2回生の時の切磋琢磨して建築に一直線に向き合うといったあの時間は製図室が与えてくれたことは間違いありません。卒業制作も、頑張るみんなの姿がなかったらきっとあそこまでできなかった。あの空気感や、その重要さも、金沢に戻ったからこそより深く感じています。

気づいた二項の素晴らしさ

製図室で寝ていた私が、製図室に行かなくなって、

・同じ空間で制作をするという素晴らしさ
-切磋琢磨できるというのは、自分を奮い立たせる要因にもなりますが、一方で折れてしまいそうにもなる。そうとはいえ仲間の顔や作品が見えるというのは、より良いモノが生まれる可能性に満ちています。
これに関しては先生方とも話していたのですが、昨年度との全体としての成果物のクオリティに(特に1.2回生に関して)明らかな差がありました。どれくらいのクオリティが求められてるか、3.4回生になればある程度想像力が働くので、彼らに関しては苦言を呈する程でもなかったそうですが、1回生の課題では特に顕著だったそうです。

-偶発的な対話や議論が生まれる
これは学校に行かないと絶対にできません。私が1番missingしてるポイントです。

・1人になって向き合う素晴らしさ
-人と比較しなくなり、自分の作品に正面から向き合うことができます。

という両局の良さを改めて感じました。


自分の弱さに気づいたけれど

これは私が「すぐに比較してしまう」という性格が故に気付いた事です。人によってもちろん違う。私の弱い部分が露呈しただけの話。

だから自分にとっては、学校から離れるのは悪いことじゃなかったんです。

ただ、私にはよかったとはいえ、やっぱり製図室の特別さや、あの切磋琢磨できる空気感、偶発的な会話、、、これらの素晴らしさは、何にも変えらないと感じました。
大学というリアルな場所がある醍醐味がここにある気がします。

いまだにコロナでなかなか学校に行けない学生が多いと思いますが、行けないからこそ色んな学生が、いろんな気づきに包まれているのかもしれません。それはそれでいいことで、どんなにマイナスに見えることにも、きっと、どこかにプラスの要素や、見えなかったものが見えるきっかけになるのではないでしょうか。少なくとも私は見えてなかった嫌で弱い自分を今現実に見ていて、一見悪いことですが、見えたこと自体は良かったことだと思っています。そしてもっと自分を、自分らしさを(比較するんじゃなくて)認めていかないと、と思いました。決して甘やかしすぎるのではなく

これは持論ですが、動物は本能的に「比べてしまう」遺伝子が組み込まれている気がします。それをどうコントロールするというか、どう付き合っていくか、なのかなあと、最近思ったりします。切磋琢磨とかっていい事だと今でも思ってますし。

などと(久々に)少し長めに書きましたが、

来年は、日本中、世界中でまたこの生き生きとした空気感に包まれた、学びの空間をたくさんの人が享受できる日々が戻ってきますように。

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