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想像力を失えばうつくしい世界を失うと思った

久々に春のようなくうきを感じた二日間に、引きこもっていた私も思わず散歩をしました。春まで溶けることのないようにも思われた雪山がほとんど溶けだし、ようやく天気の良い日はランニングができるようになりそうです。金沢で冬を過ごすと、ドイツにいた冬を思い出すし、ドイツにいた時は逆だったなあと思ったりしました。

この前、ずっと読みたかった新人世の「資本論」を読んだのと、その感想や思ったことを残しておこうと思い、今、文章を打ち込んでいます。

実は1ヶ月ぶりの読書timeだったのですが、その(時間の)幸福感と内容の面白さに一瞬で読んでしまいした。 

この本の内容をざっくり述べると、気候変動と資本主義の共存の限界を明らかにし、マルクスが晩年に提唱した(と研究で近年明らかにされた)「資本論」をベースに、「脱成長コミュニズム」こそが気候変動を、世界を救う。ということを展開しています。(まだ読まれてない方いたらごめんなさい)

近年、「環境」をビジネスチャンスと捉え、「気候変動に打ち勝ちながら経済発展する」という流れはありますよね。「環境に配慮していない会社に投資家は投資しなくなっている」という類のニュースを聞いたことがある方は多いと思います。

「資本主義と気候変動は共存しうる。」

私もそう思っていました。(という名の願望)

この本ではそこに孕む矛盾をかなり痛快に明らかにしています。例えば、今どこに行っても騒がれるSDGsですが、この言葉、最近一人歩きしていませんか?というか、「使えばウケがいい言葉」になっていませんか?「環境=ビジネス」って、簡単に言うとそういうことが起こっています。そして本質は何も変わってないのです。つまり具体的にどういうことかというと、

環境危機という言葉を知って、私たちが免罪符的に行うことは、エコバックを「買う」ことだろう。だが、そのエコバックすらも、新しいデザインのものが次々と発売される。宣伝に刺激され、また次のものを買ってしまう。そして免罪符がもたらす満足感のせいで、そのエコバックが作られる際の遠くの地で人間や自然の暴力にはますます無関心になる。

こんな話、今に始まったことではないだろう、と思われる方もいるかと思いますが、これが「資本主義」なのだと、私は改めてハッとしました。

「グリーンニューディール」という名の「緑の経済成長」は、周辺部への転嫁を不可視化しているに過ぎず、本文中にも出てくる我々の「帝国主義的生活様式」のために、世界のどこかで、何かが犠牲になっている。つまり、どれだけ先進国が二酸化炭素排出量を減らそうとも、私たちが消費しているものはその「外側(=ここでは新興国とまとめます)」で生産され、先進国に輸出される。そしてその「外側」の二酸化炭素排出量は減っているどころか、むしろ増えています。

そもそも経済発展している限り、我々の経済活動の規模はどんどん大きくなります。それは、「グリーンであろうがなかろうが」変わらない事実です。そして、経済活動の規模が大きくなるということは、資源消費量が増す、つまり「二酸化炭素排出量が減ることはない」ということです。「グリーンニューディール」は、そのような「本質」を我々の眼中から消し去っています。

(語弊が無いように補足すると、本の中でも述べられているように、SDGsもグリーンニューディールの内容も、もちろん必要です。完全否定しているわけではありません)

ここまでは本の1部抜粋をまとめたに過ぎないですが、ここからが感じたことです。

わたしたちの目に入るのはほとんどが表層でしかないのかもしれない

先ほどの引用文から分かるように、私たちが目にしているモノや情報がいかに表層的であるのか。

そしてその背後の情報がいかに消し去られているのか。

簡単に(少し乱暴に)言えば、SNSで日々流れてくるふとした情報が、いかに表層的であるのかということもその1つです。

例えば100人何かに合格した人がいれば、そのうち80人は「合格した」と発信するかもしれません。ですが100人不合格だった人のうち、「不合格だった」と発信する人は、数人または数十人程度でしょうか。

しかしこれらが積み重なると「世界は成功者ばかりである」ような感覚に陥ります。(私だけもしれませんが。笑)SNSが登場して、「見えた明るい世界」が増えた一方で、「そうじゃない世界」は見えなくなりつつある。苦しいことや悲しいことを敢えて共有する人はなかなかいませんから、必然といえば必然なのですが、そうやって幸せを眺めていると、「自分も幸せだ、ハッピーだ、と表明したい」となりませんか?こうしてSNSは「幸せの連鎖」を起こしている。気づかぬうちに、「ハッピーな表層」に惑わされ、自分もそこに加担してしまってる、私はそういう経験があります。

(もちろんそれ以外にもSNSは多くの使われ方があるし、一概に1つにはまとめられませんが、例えば、の話です)

よく言われる日本のメディアの切り取られ方だって、表層の1つですよね。

本の内容で言えば、スーパーで買うモノは誰かが育ててくれたモノだし、こうやって打っているパソコンだって、希少金属が採掘されて、そこで働く人がいて、加工されている。・・・・と、想像すると苦しくないですか?だけど、資本主義が生んだ分業はこのような不可視化な世界ばかりで、悲しいかな、それによって私たちの生活は(ある意味で)豊かになっている。

話が色々な方向に飛びましたが、自分たちの見ている世界の奥側に何があって、誰がいて、何を思っているのか。本当の内容は何なのか。ものすごく基本的だけど、自分自身そういう思考力が失われつつあるな、と危機感を覚えました。それは、環境問題や資本主義に限らず、私たちの生活の中、全般に言えることだと思います。

こうやって本質を捉える時、「知識」ももちろん大事ですが、それ以上に「想像すること」がポイントになってくる。言い方を変えれば、「疑いの目を持つこと」と「想像すること」って一種ニアリーイコールだと思うのです。で、この姿勢って今の社会にものすごく大事なんじゃないかと。

表層だけを見て見過ごすのではなく、そこに存在する深淵を想像し、そしてそれを直視すること。(+行動すること)つまりそれって究極は「やさしさ」なんじゃないか、と思ったりします。それは対家族である時もあれば、見知らぬ誰かかもしれないし、自然や動物に対してなのかもしれない。想像することって、「表面的ではないやさしさ」の一歩目だと思うのです。

想像し、立ち止まることがなければ、うわべだけの男女平等も、SDGsも、政府の掲げる「2050年までの脱炭素化」も、それらにフワッと乗っかるだけで、結局格差や自然破壊に加担することになるのかもしれない。

SNSの炎上だって、双方の想像力の欠如で生まれていますよね。

この文を読んで、そっか〜って思ってくれたなら、自分の目の前にある世界が、自分の思っている以上に「表層的」でしかないか、ふと立ち止まるきっかけになってくれたら幸いです。(そんな当たり前のこともうやってるよ!って人もいるとは思いますが・・・)もちろん、すべての事に対して、「想像力を駆使して1からすべて考えてみろ!」なんて言っていません。「聞こえのいい事」に対して、「自分の行動」に対して、「本当にそうだろうか」「これでいいのだろうか」と立ち止まらないといけない、改めてそんな気がしました。

想像することって、対人関係から気候変動のような大きなスケールの社会問題に至るまでの、今後の一つのキーワードである気がするんです。ということが、本を読みながら頭を過ぎったので、読書感想文とさせていただきました。

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想像することをやめてしまえば、人と人が通じ合う、やさしい世界も、春の訪れを感じられる、うつくしい世界も、失ってしまう気がして。

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