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五月と性悪と言い訳

五月が終わった。春の組織変革の波に巻き込まれ、直属の上司が変わった。「残業は月に45時間以内ですよ」と新鮮なことを言われ、それを従順に守ったおかげで、五月は割と伸び伸びと暮らすことができた。昨年の秋頃からずっと残業80時間を超過したりしなかったり、とにかく中々にしんどい働き方をしていたので、やっとひと息つけたような心地がする。

しかし、働かなければプロジェクトの全体スケジュールは遅延していくばかりで、おそらく方々から恨まれているのだろうな、という気もする。まだですか、いつ目処が立ちますか、本当に間に合うんですか。色々毎日言われている。もう何も感じなくなってしまった、こんなメンバー全員が無茶やって少しずつ磨耗していくことでしか実現できないものなら、きちんと手順を踏んで破綻してしまったほうが良い。

心は意外なほど安定している。少しずつ性悪になっていっている自覚はあるが、嫌うなら嫌ってみろよ、わたしもお前を嫌いだからな、という気持ちを全方位に持っている。古くからの友人、家族、わたしに優しくしてくれる人、色々とどんどん『無理』になっていっているのを感じる。『好き』な人のことはとことん好きだが、それ以外は大体嫌いである。我ながら怖い精神状態だ。助けてほしい。

私は大丈夫? 嫌われてない? みたいなこと言うのを禁ずる。法律で禁じられています。

わたしは本当はもっといいこだったのにな、と悲しくなるときもあるが、そもそも『性格の悪さ』というものの正体とはなんなのか。本当に、心の底から優しくてあたたかくて、常に誰かのことを思って行動できるひとは『性格がいい』のか。それはそうだろう、それは文句なしにいいこだ。では、心の底で色々と燻っていることがあっても、それをおくびにも出さずに、『いいこ』として振る舞い続けるのは、どうなのだろう。心の中でどれだけ人を憎み、悪態をつき、小狡いことばかり考えていたとしても、外から見える姿が素晴らしければ、それは『性格がいい』ということになるのか。

わたしはずっと、内心では他人を嫌いまくり、馬鹿にし、見下してきたが、それを慎重に隠す思慮深さと辛抱強さを持っていただけなのかもしれない。その箍が今になって外れてきているだけなのかもしれない。そう思う。わたしは最初から『いいこ』なんかじゃなかった。ただの立ち回りのうまい烏だった。

そういう意味では、嫌いなものを潔く表明している今のほうが誠実なのかもしれない。色々なところに敵をつくり、自分で自分の性悪さに悲しくなること以外は、特に問題ないのかもしれない。

いや問題だな。

いずれにせよ、いまのわたしにできるのは心身の自衛だけだ。気を抜くと転落しそうになるから、なんとか踏ん張りたい。常に身体のどこかしらが不調だが、これはもう三十代に差し掛かっているからだと思っている。

最近、夕方になるとベランダに出る。なんとなく空を見て、数枚写真を撮る。夕方と夜の境目を見送って、また仕事をする。

鬱々とした雑記になってしまったので、最後に五月を切り取った写真を貼ってお茶を濁しておきます。

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ベランダ産バジルが活躍する季節。

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五分で作った回鍋肉。
こういう雑な料理が一番ビールに合いません?

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キャベツ、ハッセルバックポテト、パンキッシュ。
全部虫みたいなのなんで?

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焼き鯖ほぐして薬味じゃんじゃん入れた〆。

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チーズスフレ。

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シュークリーム。

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誰にも会わずに伸びていってしまう人生最短ショートヘア。
唐突にメシ以外の写真でびっくりですね。

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