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【第18章・島原遊郭の一番星】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第十八章  島原遊郭の一番星

 江戸で狩野吉之助と島田竜之進が正式に役に就いた約四ヶ月後、元禄十年(一六九七年)六月下旬、新見典膳は京都に来た。彼が甲斐を出奔してから、すでに一年以上が経っている。

 中山道の加納宿で道場破りをした後、半年ほど米原の禅寺に逗留。その後、大和(奈良県)の柳生の里に向かった。
 柳生は剣の聖地である。道場で稽古に参加する中、二人の剣士と出会った。二人とも典膳より若く華奢であった。しかし、とにかく強い。ようやく一人とは互角に渡り合えるまでになったが、もう一人からは遂に一本も取れなかった。恒山禅師の言った通り、世の中、強い奴はいるものだ。両名とは肝胆相照らす仲ともなり、再会を約して別れた。

 典膳は、最終的に江戸に出ると決めている。

 しかし、彼が庄屋一家を斬殺した台ヶ原は、江戸と甲州街道一本で繋がっている。藩の手配書が江戸の町奉行所まで届いていないとも限らない。そのため、もうしばらく時間を潰したい。

 彼は、山深い柳生から奈良の中心部に出た。大和街道を北上し伏見へ。そして、翌日、遂に京都の南玄関・東寺(教王護国寺)の五重塔を見たのである。

「おやじ、茶と団子を頼む」
 典膳は、九条通に面した茶店の長椅子に腰を下ろした。老店主が、湯呑と共に典膳の前に置いた塗りの小皿には、見たことのない三角形の菓子が載っていた。
「都の団子は三角なのか」
「いえ、水無月ですよ。六月の晦日は夏越の祓い。この時期にはこれを食べるのが習いなんです。お試し下さい」
「ほう。上に載っているのは小豆か」
「はい。下の白い部分は餅ではなく、ういろうです」

「なるほど。ところで、京都で枯山水の庭と言えば、やはり龍安寺かね?」
「おや。お武家様、お庭にご興味が? それなら、あの石庭は、一度は見ておいた方がいいでしょうな。しかし、昨今はいつ行っても見物客が多くてね。静かに庭を眺めたいなら、大徳寺や妙心寺に行くといいですよ。この近くなら東福寺でもいい。境内にいい庭を持った塔頭がいくつも有りますから」
「おすすめは?」
「東福寺の芬陀院なんてどうでしょう。雪舟等楊が作庭したという枯・・・」

 その時である。通りに大声が響いた。
「おい、誰か! 誰かそいつを止めてくれ!」

 見れば、通りを西に向かって若い男が駆けて来る。その後ろを追っているのは、商家の手代風の男だ。
 典膳が伸ばした脚に引っ掛かり、若い男がすっ転ぶ。追いついた手代風が、若者の頬桁に一発かます。それで終わった。
「旦那、これはどうも。助かりやした」
「なんだ、お前の方が悪相だな。しくじったか」

 その悪相の男、竜蔵と名乗った。彼は、妓楼の新米番頭で、得意先を回って集めた売掛金をひったくられたのだという。出世した途端の大失態を救われた。是非、礼がしたい。店まで来てくれ、と言って聞かない。
「旦那、どういう女がお好みで? どんな女でもお世話させていただきますよ」
 そこまで言われれば、典膳も嫌いではない。
「そうか。そうだな、せっかく都まで来たのだ。最高の女を頼む」

 竜蔵に連れられて大宮通から丹波口へ。祇園と並ぶ京の色町・島原、そこで典膳は、彼女と出会った。

 女の名は、乙星太夫。

 島原の名門妓楼・手嶌屋の一番の売れっ子で、当年二十四。「乙星」は、伝説的遊女・地獄太夫の幼名から来ている。名に恥じない美貌は言うまでもない。

 そして、庭見物などすっかり忘れ去って十日目の昼過ぎである。横に寝る乙星の白玉のような肌に薄っすらと汗が浮かび、何とも艶めかしい。
「今日も暑いな。今からこれじゃ、夏本番はどうなる? これで雅だとか風流だとか言っていられるのだから、都人というのは随分と我慢強いものだ」
「ふふふ、馬鹿なことを。あたしらだって、十分参ってますよ。さあ、どうぞ」と、女が手拭いを渡してくれた。

「それにしても、向かいの店、昼日中から、どんちゃんどんちゃん、随分と賑やかだな」
「ああ、赤穂のお大尽が来ているんでしょう」
「赤穂? どこかで聞いたな。近江の辺りだったか」
「違いますよ。都があるのが山城(京都府)。その隣が摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)、そのまた隣が播磨(兵庫県南西部)で、赤穂は播磨の海沿いの町です。塩田開発に成功して、たんと儲かっているそうですよ」

「すると、藩の御用商人あたりか」
「いいえ、お武家です。家老でしたか。大坂まで来ると、必ず京都まで足を延ばしてくれるんです。島原と祇園、どっちでも大層な顔ですよ」
「武士も色々だな。寝たことはあるのか」
「嫌ですよ。お座敷に呼ばれたことはありますけど、あたしはどうも苦手で。愛想も金離れもいいんですけどね。たまに嫌な目をするんです。他人の頭の中まで覗き込むような、嫌な目を」
「へえ」
「うるさけりゃ、障子、閉めましょうか」
「よせよ。暑くて死んじまう」
 典膳は左手を伸ばし、乙星の鎖骨のくぼみに溜まった汗を指で弾くと、そのままぐっと抱き寄せた。
「あらあら、またですか」

「旦那、典膳の旦那」と、女が男の保津峡の大岩のような逞しい肩をつつく。
「うん? ああ、何時だ?」
「もうすぐ五つ(ほぼ午後八時)ですよ」
「腹減ったな。何か頼もうか」
「鱧寿司を頼んでおきました。ところで旦那、いつまで居てくれるんですか」
「あと二、三日かな。やることがあるからな。ここで無一文にはなれんのだ」

 妓楼への払いもかさんできた。番頭を助けた礼として無料になったのは一夜分だけ。その後は、毎日、乙星が湯を浴びに行くときを見計らって、店の女将がきっちり前日分を取りに来る。あのおかめ顔も見飽きた。そろそろ潮時だろう。

「そうですか。行っちまうんですか」
 女はそこで一度視線を窓の外に向けたが、すぐに戻した。
「ねえ、旦那。いっそ、ここであたしとこの店をやりませんか」
「何だと? お前、ただの遊女じゃないのか」

「いいえ、ただの遊女ですよ。まあ、ただの、でもないか。あたしは、この店の安女郎と黒谷の破戒坊主の間に出来ちまった、正真正銘、遊郭の子なんです。おっ母さんは、あたしを生むとすぐに死んじまいました。それで、この店の主夫婦に育てられて、そのまま遊女に。だから、人別帳の上だけですけど、一応、主夫婦の娘ってことになってるんですよ」

「ほう。つまり、主夫婦がぽっくり逝ってくれれば、この店はお前のものになるってことか」
「ええ」
「つまり?」
「だからですよ」
「俺に二人を殺ってくれって言ってるのか」
「旦那。あたしね、これまで、男に囲われるなんて真っ平で、身請け話も断ってきました。二晩以上、同じ男と枕を共にしたことすらなかったんです。でも、旦那となら・・・」

 目が合った。

 乙星は、所謂、桃花眼であった。切れ長の美しい目だ。しかし、その最大の特徴は、性欲が高まると白目の部分が薄っすらと桃色に染まる点にある。その艶なる魅力に抗える男はまずいない。典膳もその色気に改めて息を飲んだが、さすがに多少なりとも免疫が出来ている。

「ははは、凄いなお前。江戸の吉原じゃ、遊女が男の気を引くのに、心中を持ちかけることもあると聞くが、都じゃあ、殺しか」

「あら嫌だ。お見通しですか。ふふふ、冗談ですよ。まあ、せめて、すっからかんになるまで居続けて下さいな」
 乙星はそう言って、ぷいと横を向いた。その横顔は、決して笑っていなかった。典膳は、女の美しい横顔に表れた愁いを見逃してない。その上で、彼女の細い腰に手を回すと、もう一度強く引き寄せた。
「何だか、惚れ直したよ」

次章に続く


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